OSHOがこのウルグァイの講話シリーズを話しはじめたころには、OSHOはもう自分が肉体にとどまっていることができる時間が限られていることをわかっていたように思われます。
OSHOには、もう時間がなかったのです。
にもかかわらず、OSHO は自分の命を燃やして話しつづけてくれていたのです。
それは何のためだったのでしょうか?
その答えがここに書かれてあります。
それは私たちが人生の問題にどのように取り組むのかという姿勢にもかかわっています。
問題について考えすぎるのではなく「意識的になる」こと。
OSHOが話すのは、問題を「解決」するのではなく「解消」するためなんですね。
前回のブログでの犬のお話、覚えていますか?
寺院に迷い込んで、そこの内側の壁にあった無数の鏡に映った自分の姿に向かって一晩中吠えつづけ、闘い、壁にからだを打ちつけて死んでしまったインテリの犬のお話です。
「これこそが神秘主義の基本かつ本質的な理解のひとつだ」という「これこそ」というのは、その犬のお話のことを指しています。
シュンニョは書いています。
「これこそが神秘主義の基本かつ本質的な理解のひとつだ―――
私たちがまわりに目にする人々は、私たち自身の影にすぎない」
「私たちは必要もないのに闘いあい、必要もないのに恐れあっている。
そこにはあまりにも大きな恐怖があるため、私たちは核兵器を蓄積し、それでたがいを脅しあっている。
一匹の犬がいるだけだ。ほかのすべては、影にすぎない。
だからチェタナ、インテリにならないように。
こうした問題について考えてはいけない。
さもないと、あなたはますます混乱する。
それよりも、意識的になりなさい。
そうすれば、あなたは問題が消えていくのを目にするだろう。
私がここにいるのは、あなたの問題を解決するためではなく、
あなたの問題を解消するためだ。
そしてその違いは大きい」
『The Path of the Mystic』
OSHOが話すのは、質問に答えるときだけです。
そして彼は質問に答えて、大いなる神秘や秘密について話しました。
OSHOがこんなふうに言うのを聞きました。
「私が話していることがあなたがたの理解を超えているのはわかっているが、
それでも私は話さなければならない」
OSHOはできるかぎりのことを話さなければならなかったのだと思います。
時間がなくなりつつあったのですから。
私はこのことをラフィアに話すと、彼はつぎのような逸話を思い出しました。
OSHOが何度も話してくれた逸話です。
ゴーダマ・ブッダとその弟子のアナンダが、秋の森を歩いていました。アナンダはブッダに尋ねました。
「あなたは、あなたの知っていることをすべて語りつくされたのですか。
それともいまだに語りつくしていないことがあるのですか」
ブッダは四十年にわたり、ずっと話しつづけていました。
ブッダはしゃがんで片手を伸ばし、手のひらいっぱいに落ち葉をすくうと、それをアナンダに見せて「このくらいは話した」と言いました。
つぎにブッダは「これは話していない」と言うと、両手を広げて森いっぱいの落ち葉を示しました。
ウルグアイでのOSHOは、両腕に抱えられるだけの落ち葉をすくいあげて、それを私たちに降り注いでくれたようだ―――ラフィアはそう私に言いました。
「真実とは純粋な気づきだ」―――OSHO
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)