OSHOギリシャを去る

前回、警官たちがOSHOの滞在していた別荘地に乱入し、OSHOの居間にまで突入した様子を少し書きました。

OSHOはそのような状況にあっても、全く影響されることなく、ゆったりと落ち着いています。

OSHOを暴力的に椅子から引きずり降ろそうとした警官も、OSHOの手を掴んだその手をやさしく触れられ「暴力を使う必要はない」と言われただけで、思わず敬意を表すかのように一歩引き下がってしまいます。

以前、OSHOの講話の最中に、OSHOを殺そうとしてナイフを投げつけた暴漢がいました。
ナイフはOSHOに届かず足下に落ち、OSHOに飛びかかろうとした暴漢は周りにいた人たちに取り押さえられたのですが、その後、OSHOは何ごともなかったかのように講話を継続した、ということがありました。

こんな騒ぎの中にいながらも、OSHOはOSHOのままなのです。

シュンニョは書いています。

混乱は続きました、男たちは互いに議論したり怒鳴ったりしはじめました。部屋の中の緊張は、まるで波のように高まったりおさまったりしています。

待ちきれなくなった警官がひとり、OSHOの方にずかずかと進み、OSHOの手首をつかみました。
OSHOがくつろいで座っているときにはいつもそうなのですが、彼の手首は椅子の肘掛けに置かれていました。

警官は「これからおまえを連行する!」と言うと、OSHOを椅子から引きずり降ろそうとしました。

OSHOは空いているほうの手をやさしく警官の手のうえに乗せ、軽くそれを叩くと「暴力を使う必要は無い」と言いました。
警官はOSHOの手首を離し、敬意を表すかのように一方うしろに下がりました。

警察署長は言いました──
私はOSHOを逮捕しなければならない……私にはそうするしかない……それが私の受けた命令なのだから。

事ははっきりしました。
OSHOが立ち上がり、警官たちがOSHOを連れて行こうとしているとき、私はOSHOの医薬品を収めた棚に駆けて行って、つかめるかぎりのものを自分のポケットにつめこみました。
それから、らせん階段を降りていたOSHOに追いついて、彼の手を取りました。

一緒に階段を降りながら、OSHOは私の方を向き、やさしい気づかうような声で尋ねました
「チェタナ、からだは大丈夫かね?」

信じられません! 
世界には悩みの種などひとつもなく、これから午後の散歩に向かおうとしているかのようでした。

そして彼は私のからだを心配しているのです。
「ええOSHO、私は大丈夫です」

私たちは警官に囲まれて、一階の部屋を通り抜けました。
昨日まで、私たちはそこでとてつもなく美しい講話を楽しんでいたのです。

獲物を手にした警官たちは、獲物が絶対に逃げないように注意していまいた。
私たちが大きな木のドアを開けて外に出ると、そこには衝撃のあまり呆然となったサニヤシンたちがいました。

ムクタがふたりの警官を相手に、なにやらギリシャ語でやり合っています。
OSHOはムクタに言いました。
かまうことはない、ムクタ。連中は白痴だ

車の停めてあるところまでくると、OSHOは私にあとに残って荷物をまとめなさいと言いました。
私はうなずき、OSHOは車に乗りました。OSHOのあとからひとりの警官が乗りこみます。

小型車でした。

OSHOは両側から警官にはさまれています。
その場にはデヴァラジとマニーシャがいました。
私は自分の持っていた薬をすべて、デヴァラジのポケットにつめました。

警官たちは、弟子たちをひとりも連れないままOSHOをどこかに連れ去ろうとしているようでした。
私は車の前に立ち、ボンネットに身体を乗り出し、いまではむかしからの知り合いのように感じられる警察署長に向かって、とてもゆっくりと、それでもとても大きな声でこう叫びました。
「医者を乗せて! 医者を乗せて!」

デヴァラジはいまにも車に乗りこもうとして待っていました。
いったん閉まろうとしていた車のドアが開き、警官のひとりが車から出ました。
マニーシャがデヴァラジを車のなかに押し込むと、そのたとから同じ警官が再び乗りこみました。
後部座席はかなり窮屈そうです。
デヴァラジは医者用の鞄を窮屈そうにひざに乗せているし、OSHOもすみの方に追いやられています。

車はほこりっぽい通りを走り去りました。
そのときです。OSHOが着ているローブを見て、ある記憶がよみがえりました。
それはラジニースプーラムで見た夢のなかで、OSHOが着ていたローブだったのです。

警察がOSHOをどこに連れて行くつもりなのか、私たちにはわかりませんでした。
船でエジプトに送還するという噂がありましたが、その話はほんとうだったので、OSHOを安全にギリシャから出国させるために、私たちは2万5千ドルのわいろを払いました。

私はムクタとニーラムを探しました。
OSHOが国外追放になったなら、このふたりがインドまでOSHOに同行するべきだと思ったからです。
OSHOがたったひとりでインドに到着するなんて、考えただけでもぞっとしました。
OSHOが金とパスポートについて話したことを、読者のあなたも覚えているでしょう。

1ダースほどの巨大な金属トランクに、私は荷物を詰めました。
OSHOの椅子は木枠で梱包しました。
スーツケースや小型トランクもふくめて、全部で30個ほどの荷物になりました。

荷造りを終えた私は、ヘラクリオン空港に向かいました。
そこでOSHOはアテネ行きの飛行機を待っています。
警察官が2万5千ドルのわいろを受け取ったあと、OSHOに対する扱いは大いに改善されました。

OSHOは小さな部屋に座っていました。
銃を持った警官たちに囲まれています。
そしてなんと『ペントハウス』誌の記者からインタビューを受けていました。

・ ・ ・

1986年3月6日、午前1時20分。
OSHOのほかに小型ジェット機に乗っていたのは、ヴィヴェック、デヴァラジ、アナンド、ムクティ、ジョンでした。

飛行機はアテネを離陸しました。行き先はわかりません。
パイロットも知らないのです。
上空でパイロットはジョンに尋ねました。
「目的地は?」 
ジョンは答えられませんでした

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)