人が恋に落ちるとき

OSHOがアメリカを去ってワールドツアーをして再びインドに帰るまでに、OSHOはなんと200近い講話をして、それが英語で6冊の本になって出版されています。

しかも日本語に訳すと、ある講話に至っては900ページ足らずの本(「神秘家の道」)になり、別の講話は500ページ足らずの2分冊(「炎の伝承」)になっています。

それだけの膨大な講話を、国から国へ、空港から空港へ、武装した官憲から別の武装した官憲へ、監獄から監獄へ、拒絶から拒絶へという常軌を逸した放浪の旅のなかで、かりそめに滞在したネパール、ギリシャ、ウルグァイでなされたというのは驚異的なことです。

しかもアメリカで盛られた毒に身体が蝕まれ、ときには歩けなくなるほどまでに身体が弱ってきているなかでです。

OSHOはなぜそれほどまでにして、私たちにこれらの講話を残してくれたのでしょうか?

ここまでOSHOブログを読んでくださっている方には、もうおわかりのことだと思います。

それらのワールドツアーの間に話された講話のエッセンスは「ゴールドナゲッツ」という200ページあまりの本になっています。
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4900612189/oshoartunity-22/ref=nosim

「ゴールドナゲッツ」の本では、その膨大なOSHOの講話のなかから、瞬玉のエッセンスを、みじかな箴言のような言葉としてまとめてあります。

ちょうどシュンニョの関係性についてのお話がはじまるところなので、「ゴールドナゲッツ」からそれに関連したOSHOの言葉を選んでみました。

どうして恋に落ちたときにはすべてはバラ色なのに、そのあとには、どうして恋いの苦しみがはじまるのだろう? ということを解き明かしてくれています。

OSHOは語ります。

ある人と恋に落ちるとき
あなたは実際にその人と恋に落ちるのではなく
自分の空想の人と恋に落ちるというのは
よく知られた事実だ

ふたりが一緒にいないとき
バルコニーから恋人を眺めるとき
あるいは、海岸でほんのしばらく会うとき
映画館のなかで互いに手を取り合うとき
あなたは感じはじめる
「私たちは、お互いのために生まれてきている」

だが、誰ひとり相手のために生まれてきてはいない
あなたは相手に次から次へと
自分の幻想を投影しつづける
──無意識に──

そして相手のまわりに一種のオーラをつくる
相手もあなたのまわりに一種のオーラをつくる
すべては美しく見える

なぜなら、あなたがそれを美しくしているからだ
現実を避けて、夢を見ているからだ

そしてふたりは
できるだけ相手の空想を妨げないように努める

だから、女性は男性が望むように振る舞い
男性は女性が望むように振る舞っている

だが、それは長くて数分間、
あるいは数時間続けばいい方だ

ひとたび結婚して
1日24時間、ともに暮らさなければならなくなったら
自分ではない何かの振りを続けるということは
非常な重荷になる

相手の男性または女性の空想を満たすだけのために
どれだけ演技を続けることができる?

遅かれ早かれ、それは重荷になり
そして復習が始まる

あなたは相手の男性が自分のまわりにつくった空想を
すべて壊しはじめる

そのなかに閉じ込められたくないからだ
あなたは自由に、ただ自分自身になりたい

そして相手の男性も状況は同じだ
彼は自由に、ただ自分自身になりたい

そして、それがすべての恋人たちの間──
すべての人間関係の間で続いている闘争だ

「ゴールドナゲッツ」
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4900612189/oshoartunity-22/ref=nosim

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