OSHOの沈黙とともに坐る

いつも講話をするブッダホールに出てこないときのOSHOの様子をシュンニョの手記で読むと、食事もほとんどとらず、身体もアメリカ政府によって与えられたタリウムの毒による苦痛に苛まれて、危篤に陥ったりもしてたことがわかります。

そして、OSHOの最後の講話のあとは、さらに身体が衰弱して、ブッダホールにも現れないときが続きました。
しかし、そのOSHOがふたたびブッダホールに現れるというのです。
OSHOに会えるというだけでアシュラム全体が活気づき、ブッダホールにOSHOが現れると、喜びと祝祭(セレブレーション)の渦に沸き立ちました。

とはいえ、OSHOは講話をすることはなく、OSHOがブッダホールに現れ、みんなにナマステー(合掌)をしながら挨拶し、いつもの椅子に座り、沈黙と音楽のなかにしばらく坐り、そして立ち上がって、ふたたびみんなに合掌をしながら静かに出て行きました。

そこに作りだされる喜びと静けさ、瞑想の高みは、なににもかえられない空気と空間でした。
そこに現れるOSHOは、身体が衰弱して、痛みに苛まされて、1日中ふせっていたことなどみじんも感じさせませんでした。

その合掌の姿と笑顔を見るだけで、すべてが満たされるのです。
その背後ではビートのきいた音楽が鳴り響き、Oshoは合掌の手を動かし、みんなを踊りへと誘い、ときには合掌した両手を振り下ろします。

みんなは歓声をあげ、そんなOSHOとともに、大理石の床に座りながらも上半身を動かしながら踊り、祝うのです。

しかし、OSHOは両手が痛むのか、以前はもっと自由に両手を動かして踊っていたのですが、決してその合掌した両手を離すことはありません。
両手を動かすことができなくなると、合掌したまま、その目を見開いたりすることだけで、そこに集った数千人の人たちを笑いと喜びの渦に巻き込んでいくのです。
目のひとつの動きだけで、これだけの人々を沸き立たせるエンターテイナーは私は見たことがありません。

そのあと、Oshoは椅子に座り、静かな音楽とともに、私たちは沈黙のなかにOshoとともに坐ります。
Oshoはその間、彼の手のかすかな動きで音楽を指揮しています。
そして、Oshoの手がじょじょにゆっくりと上がっていくにしたがって、音楽もそのOshoの手の動きに合せて盛り上がっていくのです。

シュンニョは語ります

雨期も終わりになろうとしている8月、アシュラムには大きな祝祭(セレブレーション)の雰囲気がみなぎりました。

OSHOが、ふたたび私たちの前に姿を現し、沈黙のなかで、ともに座るようになったのです。
私たちは、OSHOとともに新しい段階に進もうとしているように思えました。
ふたたび彼に会えるというよろこびは、彼がアナンドを介して、みんなにあるメッセージを伝えてきたときにも収まりませんでした。

それは 「私の言葉を理解した人はわずかしない」というメッセージでしたが。

OSHOはブッダホールに現れると、両腕を上下に動かし、みんな踊るように誘います。
ッダホールは、音楽とよろこびの叫びで炸裂します。
そして、それから10分間、私たちは彼とともに座ります。私はその10分間のうちに、かつてはたどりつくまでに1時間もかかっていたような瞑想の高みに達しました。

部屋に戻る車のなかで、OSHOは私の方を見て 「あれでよかったかね?」と尋ねたものです。
よかったかですって? 衝撃的でした! 夢のようでした!彼は毎晩、まったくの純真さを持って、私に同じことを聞きました。あの爆発をもたらした張本人は自分だということを知らないみたいにです。

OSHOは自分が話すのをやめたことで、残念に思っている人はいないか気にかけていました。

「私たちは、あなたに会えるだけでとても幸せです。
講話がなくて残念だと言っている人はいません」

と私は答えました

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)