存在は決して誤りを犯さない

OSHOは、これほどの仕打ちを全世界から受けながら、これほどの受難と苦難のなかにありながら、OSHOの存在への信頼はいささかまも揺らぐことがありません。

OSHOが語っていることは、机上の空論ではなく、まさに彼自身がこれらの困難な状況にありながら、彼自らがそのように生きた、生き方だったのです。そして、そのような状況のなかで、神秘の途上にあるいくつもの扉の鍵を与える講話をはじめていくのです。

シュンニョは語ります。

2週間ほど過ぎたあと、私たちは警察の監視下に置かれるようになりました。警察は1日24時間家のまわりを車でゆっくりと巡回し、私たちを監視しました。そのためOSHOは庭を散歩できなくなりました。彼は部屋にこもりきりになりました。保安上の理由から、部屋のブラインドは降ろしたままです。

私たちにはいつも、OSHOに危害が加えられるかもしれないという恐怖がありました。その結果、彼はしばしば部屋から出られない生活を余儀なくされたのです。それでも彼はいつもこんなふうに言いました

『いずれにせよ、私は目をつぶって静かに座っているのだから、どこにいようがなんの違いもない』OSHOの言うには、みずからに満足していて中心のすわった人は、どこに行く必要もないのです。

「……どこにいようと私はつねに私自身だ。
私は至福に満ちているから、どんな場所にいようと、
その場所は私にとって至福に満ちた場所になる」
――
                  OSHO

あたりは静まりかえっていました。観光シーズンの終わりだったのです。冬が近づきつつありました。
外界から隔絶されたこの静かな土地が、私にとってはダイアモンドの鉱山になりました。
OSHOはここで、神秘の途上にあるいくつもの扉の鍵を与えてくれました。
それを助けに私は内面の宝を探し、見いだしていったのです。
それからの2、3週間、私は外の世界のことを完全に忘れました。

自分は静かで平和なところにいると感じていました。
ボディガードは帰国しましたが、私たちは現地の警官たちとさえ親しくなっていました。
OSHOに対する仕打ちを見た私たちが、世界に対して感じた恐怖と幻滅について、OSHOはつぎのように語りました。

「信頼とはこういう意味だ―――
 なにが起ころうと、喜びとともにそこにあるということ。

ためらいながら、いやいやながらであってはならない―――
それでは要点をとり逃がしてしまう。
踊りながら、歌と笑いと愛とともにあることができるなら、
たとえなにが起こっても、それはよいことしかもたらさない。
存在(エグジスタンス)はけっして誤りを犯さない。

もしも、それが私たちの欲望を満たしてくれないとしたら、
それは私たちの欲望の方が誤っていたということだ

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)