OSHOは、自分が肉体を去ったときに、どのようにすべきかを指示しました。
OSHOは常々、自分のことを「オーディナリーマン」、普通の人だというふうに語っていました。
自分を特別視しないようにと。
私はあなたの鏡でしかない、と。
私にできたのだから、あなたにもできる、と。
そして彼が亡くなったときも、普通の人が火葬にふされる場所で火葬されることを選んだのです。
その火葬場は川のそばにあって、アシュラムから歩いても10分足らずのところにあります。
私はシュラムに通っていたころ、一時期その火葬場の横にあったインドのアパートに住んでいたこともあります。
それはともかく、OSHOは普通に亡くなったように見えますが、その過程を詳細に見てみると、とても普通の人が死に際してそのように振る舞えるわけではありません。
しかし、このような死の在り方が、彼が常々話していた死の在り方なのだということも見せてくれています。
OSHOがある朝、彼の主治医でもあったアムリットに自分が肉体を去ったときどうすべきかの指示を与えました。
それは、彼が実際に肉体を去る、約1ヶ月ほど前のことでした。
つまり、その時期にすでにOSHOは自分の死期を十分に認識していたということです。
しかも彼は自分が肉体を去る48時間前までブッダホールに姿を現し、みんなに別れの挨拶までしているのです。
OSHOが肉体を離れたのは1990年1月19日。
彼の誕生日に行なわれた沈黙の中でのダルシャンは、そのほぼ1ヶ月前の1989年の12月11日です。
彼が常々望んでいたことは、沈黙の中でのダルシャンです。
ダルシャンというのは、インドでは、聖者に会って、その功徳ないしエネルギーを受け取るというような意味に使われることが多いようですが、ここでは師と弟子の出会い、ぐらいの意味に使っています。
OSHOが語るのを聞いたところによると、彼が伝えたいことは沈黙の中でこそ伝わるものであり、言葉によっては伝わらないものなのだけれども、みんなには沈黙の準備ができていないので、彼は語っている、ということです。
ですから、彼の講話のYouTubeには、彼の講話は沈黙を伝えるために語っている、という注意書きが書かれてあったりします。
OSHOの最後のころは、語るだけの体力はなくなっていたので、ブッダーホールに現れても、ただ十分あまりみんなとともに座り、彼が立ち去った後、彼のビデオをみるというふうになっていました。
そしてこの日、OSHOはその日のダルシヤンは、いままでの誕生日のダルシヤンの中でもっとも素晴らしいもので、ほとんど触れることができるほどの沈黙だったと語ったのでした。
私は一度、思いがけなく「ほとんど触れることができるほどの沈黙」に触れて驚いたときがあります。
それはOSHOが肉体を離れたあと、彼の長年住んでいた小部屋を見たときです。
それは4畳半にも満たない小さな、ベッド以外にはなにもない部屋でしたが、その小部屋が改装されるということで、その改装の前に公開されたのです。
その部屋の前に立ったときに、そこから感じられたのは、まさに「触れることができるほどの沈黙」だったのです。
沈黙というものがまさに触れることができるほどのものなのだ、ということを感じたのは、まさに衝撃のできごとでした。
マニーシャは語ります。
「今日アムリットは私に、OSHOが今朝起きるとすぐ、彼が肉体を去ったときどうすべきかの指示をしたと言う。
OSHOはまた、アムリットにこうも言う。
「私が去っても、決して私のことを過去形で語らないように」
`
1989年12月11日、OSHOの誕生日を祝うセレブレーションの日、OSHOは私たちと数分間、座ることができるほど具合が良かった。
私たちは彼が自室に戻ったあとも残って、そのまま講話のビデオを見る。
彼は世話係のひとりに、その日のダルシヤンは、いままでの誕生日のダルシヤンの中でもっとも素晴らしいもので、ほとんど触れることができるほどの沈黙だったと語ったそうだ。」
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