瞑想というのは、その途上でさまざまな現象が起こりますし、それは人それぞれです。
禅でも、坐禅の修行にあたっては自分の師を求めるところから始まります。
それは禅病とか魔境とか、禅の修行の途上で起こるさまざまな現象に対して、的確に指導をしてくれる師が必要となるからです。
あの白隠禅師でさえ、いわゆる禅病にかかり、頭はのぼせ上り、両腕両脚が氷雪のように冷えて、心は疲れ切って、夜も眠ることができず、幻覚を生ずるという症状に苦しみました。
そのときは山中に棲む白幽という仙人から、軟酥の法という養生と病気の予防についての秘法を教えられて克服できたことが「夜船閑話(やせんかんわ)」に書かれてあります。
OSHOは瞑想を指導するマスターですが、その弟子たちが瞑想を行なっていく上で、さまざまな質問に対して講話で答えています。
一人ひとりを指導していくことはできないので、そのようにさまざまな質問に対して公開の講話の中で答えていっています。
それらの講話を聞いたり読んだりすることは、自分の瞑想や人生についての指針やヒントを得る上でとても助けになります。
マニーシャのように、OSHOからの瞑想の指導を受けながら、かつそのプロセスについてOSHOに質問し、回答をもらっているという人の手記は、同じく瞑想を実習している人たちにとっては参考になることも多く、とても有益なものです。
そういうこともあって、OSHOはマニーシャにこの本を書くことを示唆したのでしょう。
マニーシャは瞑想中に、さまざまな体験をしますが、精妙なオーガズムの間際のように官能的な経験をします。
それは瞑想なのか、それとも単に幻想に陥っているだけなのか?
マニーシャはその体験を次のように語っています。
「今日の講話の間の瞑想中に、突然金色の光に満たされる。それは私の内側で拡がり、上昇し、欸びで私をふくらまし、ちょうど噴水のように勢いよく、内的世界の遠大な拡がりの中へと噴き上がる。
私は体の細胞のひとつひとつ、気孔のひとつひとつを感じ取ることができる。それはほとんど、もっとも精妙なオーガズムの間際のように官能的だ。
私の体と心の動きや、興奮や感情がまったく存在しないからこそ精妙であり、しかもきわめてスリルに満ちている。
もし瞑想がこのように官能的なら、なぜ私たちはそれについて耳にしたことがないのだろうか? たぶん私か発見したのは、瞑想ではなくて、ある種の精神的な自分の内側だけのエロティシズムなのだろう。
このことについて講話の時間の質問としてOSHOに宛てて書き、こうもつけ加える。「私は瞑想の瞬間を経験しているのか、それとも単に、内側でとても気持ちよく感じる何かを自分でつくりだしているのか、確信が持てません。それが何であるか知らなくても、ただ起こるすべてを見つめようとし続ければ、それでよいのでしょうか?」
OSHOは、「もしそれが心地よく感じるのなら、問題はない」と答える。もし心地よく感じるなら、つくり続けるべきだとも言う。なぜならその心地よさは「絶対的に確実な徴候として見られるべきであり、それは瞑想へと真っ直ぐに向かっている徴候だ」からだ。
瞑想中に、自分がどんどん開いていっており、より受容的になっているのを感じている。いまはもう、開くべき理由があるのかどうかという疑問は、的はずれだと知っている。ただ開いていること、それ自体が、報酬だった。
もし存在がたったいま、私に光明を得るチャンスを差し出したなら、私はこう言うだろう。
「ありがとう、でも結構です。誰かほかの人に差し上げてください……私はすでに、充分すぎる
ほど手にしています」
踊りを通しても、座ってOSHOの話を聞くことを通しても、私は無心を体験する方法を学んでいる。-その中で思考は止まり、私は自分の中心に深く根づいている。
OSHOがこう言うのを聞いたことがある。
「あなたの歓喜は高みへと向かう動きであり、あなたの瞑想は深みへと向かう動きだ。そして、いったんその両方を得たなら、あなたの生は祝祭になる」
そして、私はまさにそう感じ始めている。私の根は土の中によりしっかりと張り。私の羽根は飛ぶ用意ができている。
「和尚との至高の瞬間」より
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