私は誰か

「私は誰か?」という問いは
最もシンプルでありながら、
最も根源的な問いでもあります。

この問いは、
インドの聖者ラマナ・マハリシが
この問いひとつで悟りを得たことから、

彼の弟子はもちろんのこと、
瞑想をしている人なら誰もが知っていて、
多くの人が実践している瞑想としても有名です。

禅では「父母未生以前の本来の面目如何」
両親から生まれる前のおまえ本質は何か?
と問われるわけです。

「あなたはだれ?」という、
たった1行だけ書かれた差出人不明の手紙を
受け取ったことから14歳の少女ソフィーの
哲学の冒険がはじまる、
「ソフィーの手紙 哲学者からの不思議な手紙」
という本が、660ページもある分厚い本にも関わらず
ベストセラーになったことからわかるように、

哲学の根本的な問題でもあり、
多くの人が持っている問いでもあります。

ところがほとんど誰もが、
その問いを見つけることが出来ないでいます。

それはなぜでしょうか?

そのことについて語られている講話です。

<質問>
私という概念や
「私は誰か?」とか
「この(私)はどこから生じるのか」と
己に問い続ける技法について
話していただけますか?

瞑想へ向かうためのこの技法は
自分の吸気と呼気の間を観る技法と
どのような点で異なるでしょうか?

ハートセンターに焦点を合わせて
呼吸を観るのと
下腹のセンターに焦点を合わせて
呼吸を観るのとで 
違いは生じるでしょうか?

ということについてOshoが答えています。

Osho

それは 古くからの瞑想技法だが
多くの危険性がある
あなたが油断なく醒めていない限り
この技法では 正しいゴールよりも
迷い道にハマってしまう 
可能性が高い

技法はシンプルだ
「私」という概念に自分を集中させる
目を閉じて
「私は誰か?」と尋ねる

最大の問題は
あなたが「私は誰か?」と問うとき
誰が 答えることになるのだろう?

おそらく 答えは
あなたの伝統や経典や
条件付けからやってくるだろう

あなたは聞いたことがある
「私は肉体ではない
私はマインドではない 私は魂だ
私は究極なるもの ブラフマンだ
私は神だと」

こうした思考のすべては
あなたが今まで耳にしたものであり
あなたは数回「私は誰か?私は誰か?」
と尋ね
「私は究極のブラフマンだ」と

これは発見ではない
これはまったく馬鹿げている

この技法に 正しく
入って行きたいのなら
この問いは
言葉で問いかけるべきではない

「私は誰か?」は
言葉で繰り返すべきではない

なぜなら 言葉による
問いかけである限り
言葉による答えが
頭から供給されるだろう

あなたは言葉による問いかけを
落とさなくてはならない

それはただ漠然とした概念として
渇きのようなものとしてあるべきで
「私はのどが渇いた」
というのではない
違いがわかるかね?

のどが渇いているとき
あなたは渇きを感じる
砂漠にいたなら
身体の線維一つ一つに渇きを感じる

あなたは
「私はのどが渇いた のどが渇いた」
とは言わない

それはもはや 言葉上の問いではなく
実存的なものだ
         Osho

今日はここまでにします。

えたに