寂しさへの瞑想シリーズ その17

寂しさへの瞑想シリーズ その17

Oshoの言葉

だから、もし人が砂漠、
アラビア砂漠、サハラ砂漠に行き、

そこに座っていると、想像し始め、
ビジョンが浮かび始める。

なぜなら、ただ同じ単調な
砂の広がりがあるだけだ。

注意するものが何もない、
ただ同じ砂の単調さが
広がっているだけだ。
気を散らすものもなく、
何も新しいものもない、
単調で退屈だ。

人は夢想的になり、
代用品を使い始める。

外に何も新しいものがなければ、
自分の想像の世界をつくって、
そこを覗き込むようになる。

ヒマラヤに行って洞窟の中に座って
瞑想している人たちにも、

そのようなことが起こっている。

彼らは想像し始める。
彼らはあらゆることを
想像することができる。

神々や女神、アプサラス、天使、
フルートで演奏するクリシュナ、
弓を持って立つラーマ、
そしてイエスなどーー

何でも想像することができる。
それは彼らの条件付け次第だ。

もしあなたがクリスチャンとして
条件づけられているなら、

遅かれ早かれ、ヒマラヤの洞窟で
イエスに遭遇するだろう。

それは純粋な想像力だ。

外側に心を乱すものが何もなければ、
マインドは自分の夢を
内側に作り始める。

そして、あなたが夢を見続けると、
その夢はとても、
とてもリアルに見える。

         Osho

マインドの想像力というのは、人間の持つ強力な才能です。

良いようにも活かすことができますし、

それがネガティブに働くと災いを引き起こすこともできます。

ところが、マインドの性質は、どちらかといえばネガティブに考える傾向があるので、

意識して使う必要があります。

それをポジティブに使おうというので、
ポジティブシンキングとか、
ポジティブ心理学というのが流行っていて、

そのマインドの持つパワーをなんとか
ポジティブに使おうというとしています。

しかし、瞑想はそのマインドそのものを超えてしまうものなので、

マインドがポジティブであろうがネガティブであろうが、マインドはマインドです。

Oshoがここで語っているのは、そのマインドの性質について語っています。

本を読んだことがあるだけで、私自身は経験したことがありませんが、

アメリカのネイティブインディアンなどの儀式でヴィジョンクエストというのがあります。

過酷な荒野に何日か過ごすことで、ヴィジョンを得るという儀式ですが、

Oshoに言わせれば、それは単にマインドの想像の成せる技だということになります。

坐禅では魔境という心境があります。

坐っているのに、空を飛んでいる自分を見たり、天使(天女)が飛んでいたり、悪魔が現れたりとさまざまな情景があわされたりします。

しかし、それらに一切とらわれずに、ただ坐れ、というのが坐禅の教えです。

それらは単にマインドの作用に過ぎないということを坐禅をする人たちは知っていたのでしょう。

今日はここまでにします。

えたに