理解とはハートのものだ

Oshoの言葉。

UNDERSTANDING IS OF THE HEART

Understanding is not of the mind:
understanding is of the heart.
You will have to fall in love.

That’s what sannyas is all about.
Falling in love with a Master,
for NO reason at all

– just for the sheer joy of
falling in love with someone
who has disappeared,

who is no more,
who has become a great nothing.
Who has become a silence.

Osho

理解とはハートのものだ。

理解はマインドのものではない。
理解はハートのものだ

あなたは恋に落ちなければならない
それがサニヤス
(弟子であること)のすべてだ

マスターと恋に落ちること、
何の理由もなくーー

すでに消えてしまった誰かと
恋に落ちることの純粋な喜び
のためだけに

その人はもはやいない、
その人は大いなる無に
なってしまった

その人は静寂(サイレンス)に
なってしまった

         Osho

私たちは、これまで学校ではマインドの理解しか教わってきませんでした。

私たちは理解とは頭でするものだと思っています。

しかし、Oshoはここで、

理解とはハートのものだと語っています。

このハートの理解というものは、言葉を超えたもので、説明することはできません。

Oshoがここで語っているのは、

沈黙、静寂(サイレンス)、無、を理解することができるのはハートだということです。

マインドには、サイレンスや無を理解することはできません。

なぜなら、サイレンスや無は、マインドにとっては死を意味するからです。

しかし私たちは、その無、サイレンスを直接理解できるかといえば、それもできません。

なぜなら、マインドにとっては、
無やサイレンスは無意味であり、
それは何もないものであり、
価値を見出すことができない
ものだからです。

そのうえ、そもそもハートとは何か、
ましてや、無やサイレンスとは何か
については、
まったくのノーアイデア、
まったく知らないからです。

それはマインドの理解を
超えているものなので、
マインドの次元で生きている限り、
それを理解することはできないのです。

そういう世界が存在していることさえ知りません。

そこでOshoは、その無、サイレンス、なにもない、ということを理解させるために、一つのデバイス(方法)を生み出しました。

それがマスターに「恋に落ちる」ということです。

私たちは、恋に落ちることなら知っています。

恋に落ちた時には、私たちは「マインド」から落ちてしまいます。

それが、恋は盲目と言われるゆえんです。

マインドには理解不能な、あらゆるできごと、あらゆる馬鹿げたことをしてしまいます。

恋に落ちた時、それはハートに落ちることでもあります。頭からハート(愛)へと落ちてしまいます。

そのようにして、Osho(マスター)と恋に落ちることによって、その弟子は、知らないうちに、無、サイレンス、「存在」の味わいを知るようになっていくのです。

そのために入口が
「ハートの理解」なのです。

マインドからハートへ
ハートから存在へ

ハートの理解は、頭(マインド)から存在への架け橋となるのです。

今日はここまでとします。

えたに