いかに真理への欲求が内側に生まれたかの仏陀の物語

江戸時代の狂歌三大家の一人、大田南畝(蜀山人)の辞世の句は

「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」

という句だと言われています。

私の好きな句です。

人生で一つ確実なことがあるとすれば、人は必ず死ぬということです。

人間は死ぬ。私は人間である。私は死ぬ。

非常に簡単な三段論法なのですが、頭で知ることと、実際に知ることとは全く異なります。

なので、頭では、周りの人が死んで行くんだから自分も死ぬとはわかっていても、実際には自分が死ぬとは思っていないのですよね。 

もし明日死ぬとわかっていたら、あなたは今何をしますか?

ということだと思うんですよね。

自分が死ぬような目にあったことはありますが、それでもそれはもう過去のことで、自分が死ぬことは忘れていたりします。

とはいえ、青年時代から今までに、何度か死を意識する体験があり、ついにはほとんど死ぬような体験をして、死に損なって今も生きているわけですが、不思議と死に対する恐怖は感じなくなっています。

昭和の初期に精神的指導者であった中村天風という人は、スパイとして自分の身を死にさらして生きていた時は死の恐怖を微塵も感じなかったのに、自分が結核に侵されたときには死に対する恐怖が出てきたと言っているぐらいなので、実際に自分が死ぬときにも死の恐怖がないかどうかはわかりません。

でも死と生は隣り合わせで、表裏一体だということはわかるようになりました。また、そのように死を身近に感じてきたことが、禅や仏陀や瞑想に興味を持って、Oshoに出会うきっかけを与えてくれたことも確かです。

仏陀がいかに出家して修行者となり、いかに真理への欲求が内側に生まれたか、という物語も、死を認識することがきっかけでした。

 

この仏陀の物語を聞いたことがあるはずだ。
これは、仏陀がいかに出家して修行者となり、
いかに真理への欲求が内側に生まれたか
についての物語だ。
たいへん有名な話であり、非常に意味深い。

仏陀が子供の頃、彼の両親は息子が
いつか偉大な王か皇帝、
または偉大な僧侶に
なるだろうと告げられた。

そこで父親は、仏陀が決して
悲しみを体験しないよう、
決して出家したくならないよう、
すべてを手配した。

父親は彼のために、当時の芸術と
職人芸の限りを尽くし、
ありとあらゆる贅をこらし、
庭園を配して宮殿を建てた……。

季節ごとに異なる宮殿があった。
父親は召使全員に、
仏陀にはしおれた花すら見せては
ならないと命じた。
花もまた死ぬのを知って、
「おそらく自分も死ぬのではないか?」
という疑間が生じないように
するためだった。

そのため、死んだ花は夜のあいだに
すべて庭園から取り除かれた。
弱った木はどれも引き抜かれ、
取り除かれた。

彼の周りにいることを
許されたのは若者だけだった。

年老いた人々は入れてもらえなかった。
それは仏陀が、
「人間は年老いる……おそらく、
いつか自分も年老いるのだ」
と思うかもしれないからだった。

青年に成長するまで、
彼は死について何も知らなかった。

死というものを一度も
耳にしたことがなかった。
村で死ぬ人々のことは、
完全に知らされなかった。
それは、
「人々が死ぬのなら、
おそらく自分もいつか死ぬのだろう」
と思わせないためだった。

わたしは観想の意味を
説明しようとしている。
観想とは、自分の周りで
起こっているすべてを見つめることだ。

目の前で死が起こっているのなら、
それが自分の身にも起こるかどうかを
観想しなさい。

年老いた人を見たら、
これもまた自分の身に起こるのか
どうかを観想しなさい。

仏陀の父親はあらゆる手を尽くし、
こうしたたぐいの観想が
彼に起こらないようにと努めた――

わたしは、この観想が生まれるよう、
あなたがたに手を尽くしてほしい。

父親はできるかぎり手を尽くして、
仏陀に考えさせないようにした。
だが、それでも事は起こった。

他人に起こったことは、いつか自分にも起こりうると理解すること、それがここでOshoがいう「観想」です。

そして、自分の周りで起こっていることを理解しない人は盲目ということで、わたしたちはほとんどがみな盲目です。Oshoが蛇を手にしていた盲目の男の話をしていましたが、盲目というのは、周りで起こっていることを本当には観察できていないし、理解もできていない、ということです。

なので、まず最初にするべきことは、周囲で起こっていることの全てを観察すること。その観察を通して探求が生まれ、疑間が生まれ、それがより高い次元の真理への渇きを生む、ということになります。

わたしはひどい痛みに苦しんできた。
その痛みがやわらいだとき、
その場に道への足掛かりが見えはじめた。
では、この道への第一歩について話そう。

もしあなたがそういうひどい痛みに苦しんできた経験があればこれからOshoが語っていることは役に立つでしょう。

もしその苦しみがなくても、「観想」することができれば、ここでOshoが語っていることも身にしみてわかるようになるでしょう。

もし、そうでないなら、多分ここでOsho が語ってくれていることはそれほど興味を持てないでしょう。というか、そうであればそもそも、このブログを読んでないですよね。

次回からは、この瞑想の道への第一歩についてです。

それでは、「観想」して見てください。

今日はあなたは何を観想しますか?

それでは素敵な1日を!

Have a nice day!

えたに