瞑想への第一歩は身体から始まる

私たちはスピリチュアルなことは、物質的なものごととは別のものだと思いがちです。

それは仏陀にしろキリストにしろ、彼らに従って精神的な道を探求するには、世俗を捨てて、物質的な欲を捨て、托鉢したりしなければならなかったので、貧乏でなければならない、という思い込みが形成されたのかもしれません。

キリスト教の国であるヨーロッパやアメリカでも、ビルゲイツでもウォーレンバフェットでも、お金持ちは必ず寄付をしています。

寄付は別にお金持ちでなくてもするのですが、キリストがお金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい、というふうなことを言ったのも理由の一つかもしれません。

お金は物質世界の欲望を象徴するものですが、身体も物質的な世界を象徴するものとみなされています。

食欲と性欲、睡眠欲という生存のために欠かせない最も基本的な欲求はこの身体を維持するためにあります。

スピリチュアルなことは、この物質世界を超えていくためのものであり、物質的な欲望を超越し、この物質的な肉体をも超えて行くべきものであるのだから、それらを否定しなければならない、というふうに思い込んでいるところがあります。

二兎を追う者は一兎をも得ず。スピリチュアルな道を歩むものは、物質的な欲望やこの肉体は否定して超えていかなければならない、と。

ですから、精神的な世界を追い求める修行というのは、断食をしたり、ヨガ行者のように身体に針を刺したり、片足で立っていたり、呼吸を止めて土に埋められたり、という難行苦行を思い浮かべたりします。

ダビンチコードの映画にも、キリスト教者が自分の体を鞭でうち、痛めつける場面がありましたが、キリストも磔にあって、その十字架がキリスト教のシンボルであったりもするぐらいなので、肉体を否定し、痛みつけるというのは、どこか深いところで、スピリチュアルな道を探求する上での条件付けや思い込みとなっています。

しかし、Oshoはそうではない、と言います。

「わたしは、究極の意識や、
神性や、内なる実存に到達したいなら、
二つのことが必要だとわかった。
一つは周辺、瞑想の周辺だ。

もうひとつ重要なのは、瞑想の中心だ。
瞑想の周辺と、瞑想の中心
ーーもしくは瞑想の身体(ボディ)と、
瞑想の魂と呼んでもいい。

今日は瞑想の周辺について話し、
明日は魂または中心について話そう。
明後日は瞑想の成果についてだ。

この3点のみーー
瞑想の周辺、瞑想の中心、
そして瞑想の成果だ。

別の言葉で言えば、瞑想の土台、
瞑想そのもの、そして瞑想の成就となる。

瞑想の土台は、あなたの周辺だけを含む。
瞑想への第一歩は身体から始まる。

だから覚えておきなさい。
他人があなたに植え付けたかもしれない、
自分の身体に対する
否定的な思いは全て捨てなさい。

物質的な世界と同様に、
精神的な世界においても、
身体は単なる道具に過ぎない。

身体は敵でもなければ友人でもない。
それは誤ったことをするのにも、
正しいことをするのにも使える道具だ。

それを通して物質的な生に
関わることもできるし、
究極的なものと交わることもできる。

身体はただの道具だ。誤解しないように。

人はたいてい、
身体は敵対するもの罪あるもので、
われわれの敵であり、
抑圧すべきものだと信じている。

わたしはあなた方に言う。
それは誤りだ
ーー身体は敵でもなければ友人でもない。
それはあなたが作るものだ。
だから身体は実に神秘的で、
たぐいまれなものなのだ。

身体に対する否定的な思いは全て捨てる、ということ。

そのことがまず瞑想の土台の一つになります。

「全て」捨てるって難しいですよね。鏡なんか見ると、どうしても色々と否定的な思いがでてきますし。

身体に対する否定的な思いは全て捨てる

それが今日の瞑想になります。

それでは今日も素敵な1日を!

Have a nice day! 

えたに