感謝の基本

あけましておめでとうございます。

2017年、新しい年が明けました。

今年一年間の決意と覚悟を新たにされていることと思います。

あなたは今年一年はどのような年にしたいですか?

「一年の計は元旦にあり」

この一年の目標や計画は元旦にすると良い、転じて、物事を始める時にはまず計画を立てなさい、という意味でもあるようです。

この言葉の由来には諸説あるようですが、中国・明代の官僚で学者でもあった馮應京が万暦年間に著した、中国の伝統的な年中行事・儀式・しきたりなどを解説した「月令広義」に由来する説が有力です。(ウィキペディア)

この歳令「四計」の項に

「一日の計は晨にあり

 一年の計は春にあり

 一生の計は勤にあり

 一家の計は身にあり」

とあり、晨(あした)というのは朝のことで、春というのは中国の暦では正月に当たるので、そこから「一年の計は元旦にあり」と言うようになったとのことです。

年の初めにあたり、この一年をどのように生きていきたいのかについてじっくり考えてみる時間をとることも大切ですが、瞑想することも大切です。

計画を立てる、というのはマインド(思考)を使い、この世の現実に対処していくには大切なことですし、瞑想は内面を整えるために大切です。

初詣は神社にお参りしますね。

その神社のご神体は何かご存知ですか?

例えばお寺だとご本尊としていろんな仏像が安置されていますが、神社では大抵は扉が閉ざされていて中を見せてくれません。

とはいえ、神社の総本山とも言える伊勢神宮の内宮には三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)が安置されています。

鎌倉の和尚アートユニティのある地域の神社は甘縄神社といって、鎌倉でも最古の神社と言われています。祭神は天照大神。710年行基が草創し、源頼義がこの神社に祈願をして、義家が生まれたと伝えられています。

石段の下には、北条時宗が産湯につかったといわれる、「北条時宗公産湯の井」があったりします。

それはともかく、この神社はお正月にお参りすると、なんといつもはお賽銭箱の向こうで固く門が閉ざされている本殿の中に入れてくれて、そのご神体の前に座ってお参りできるのです。そして、お参りが終わると、お神酒まで振舞ってくれるのです。

そしてその本殿に祀られているのは鏡です。

目を閉じて、手を合わせた向こうには鏡があり、それはある意味、私自身を映し出してくれる鏡なのですね。

つまり神社の本殿の中には自分の内側を映し出してくれる鏡があり、それはとりもなおさず、自分のその奥底には神が在るということを象徴しているかのようでもあります。

それは瞑想で体験することのその中心は、仏性、空、神、沈黙、涅槃、無、光、暗闇、一つで在ること、さまざまな言い方がなされますが、それを映し出す鏡が神社の本殿に安置され、それを礼拝している、ということになります。

神社にお参りする時には、お賽銭を入れて、鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝((二礼二拍手一礼とも言います)しますね。(この作用になっているのは明治以降らしいですが)

これ、お賽銭で神様に賄賂を送り、鈴の音と柏手を打って神様を起こして、自分の願い事を聞いてもらうため、なんて思ってないですよね?(実は、子供の頃はそう思ってました)

調べてみると、お賽銭というのは白い紙に包んだ米を「おひねり」として供えていた名残りで、大事なものを捧げることは私欲があっては出来ないことなので、賽銭を入れることで心の欲を祓うという意味があるのだそうです。

そして鈴の音によって祓い清め、二拝によって神への敬意を表し、拍手で邪気を払い、清めます。

その拍手をする時に少し右手をずらしますが、最後にその手を合わせるのだそうです。掌をずらすのは、神と人とがまだ一体になっていないということで、二度手を打つことで神を招き、その後掌を合わせることで神人が一体となり、祈願を込めて神の力を体得するからだといわれているようです。

つまり、清らかになって、邪念を払い、自分の内なる神と一体となることがこの神社のお参りの作法の意味なのです。これってまさに瞑想そのものですね。

そして、最後に感謝の礼をします。

これからお参りする人もいると思うので、その「二拝二拍手一拝」の作法をメモしておきますね。

①まず、軽く礼をします。(これは45度身体を折り頭を下げる深揖(しんゆう)というもので、これからお参りさせていただきますという気持ちを表します)
②直立の姿勢から深々と90度に身体を折り、頭を下げます。これを二回行います。これが、二拝です。
③次に拍手をパンパンと二回打ちます。このときの注意は、両手を胸の高さできちんと合わせ、右手を少し引いて拍手を打ち、再びきちんと合わせて願いを込めます。これが、二拍手です。
④最後に、両手を下ろしてもう一回深々と90度に頭を下げます。これが一拝です。
⑤軽く45度の礼をして終わります。

ちなみに、「二拝二拍手一拝」の作法について、いろいろと解説しましたが、これはあくまで一つの解釈に過ぎません。調べるといろんな説があるようなので、仕方がないので、自分なりに解釈した(こじつけた)だけなので、それが公式見解だと思わないでくださいね。

それはともかく、何を言いたかったかというと、初詣のお参りは瞑想の作法とも言えるもので(そのように解釈してしまえば)、それは神様にお願い事をするのではなく、瞑想の作法であり、なおかつそれは感謝の作法なのです、ということを言いたかったのでした。

感謝は、瞑想の基本でもあり、瞑想に限らず物事に共通する基本中の基本です。

このお話はOshoが折に触れてするお話で、私の大好きな話でもあります。

この一年の始まりにあたって、お届けします。   

最近、わたしは
中国の尼僧の話を読んだ。

彼女は数軒の家しかない、
とある村を訪れていた。
暗くなり、彼女は独りだったので、
集落の前に行って村人たちに頼んだ。

『どうか、どなたか家に
泊めていただけないでしょうか』

彼女はよそ者で、
そのうえ別の宗教の人間だったので、
村人たちは戸を開ざしてしまった。

隣村はかなり遠く、
暗くて彼女は独りだった。
その夜は屋外で
過ごさねばならなかった。

彼女は桜の本の下で眠った。
真夜中、彼女は目を覚ました
―― 寒かった。
そのせいで眠れなかったのだ。

見上げると、
花は満開に咲き誇っていた。
木は花に覆われ、月は高く、
月あかりはたいそう美しかった。
彼女はしばし、
圧倒的な歓びを体験した。

朝、彼女は村に引き返し、 
一夜の宿を拒んだ人
全員に感謝を棒げた。

彼らが『どうしてまた?』と
尋ねると、彼女は言った。

『昨晩わたしに戸を開ざした
あなたがたの愛のため、
あなたがたの慈悲と親切のためです。

おかげでわたしは、
しばし信じがたい歓びを
体験できました。

わたしは桜の花が
咲き誇っているのを、
月が輝いているのを見ました。

そして、以前は見たこともない
ものを見たのです。
もしあなたがたが寝場所を
与えてくださっていたら、
それを見ることはなかったでしょう。

そのとき、あなたがたの親切、
戸をすべて閉ざしてしまった
理由に気づいたのです』」

これはひとつの物の見方だ。
あの夜、あなたもいたるところで
門前払いをくらい、
夜通し怒りを覚えて
いたかもしれない。

人々に強い憎しみや怒りを
感じるあまり、
桜の木に咲いている花に
気づかなかったかもしれないし、
月が昇るのも見なかっただろう。

感謝の念を体験しなかったのは
言うまでもない。
あなたはこうしたことを、
何ひとつ体験しなかっただろう。

生と関わる
もう一つの方法がある
ーーそれは生の全てに対して
感謝に溢れているときだ。

そして覚えておきなさい。
この三日間は、すべてに対して
感謝すること。
受け取るものに
感謝の念を感じなさい。

受け取らないものに
煩わされてはいけない。
これが感謝の基本だ。
あなたの中に気楽
さと明快さが
生まれるのは、この基盤の上だ。

この一年、感謝に溢れた一年でありますように!

今日はここまでにします。

えたに