何であれ、楽しいことをやりなさい

何であれ、楽しいことをやりなさい──
あなたにとって、あなたの周囲にとって
楽しいことをやりなさい

あなたに歌をもたらすこと
あなたの周囲に祝祭のリズムを生み出すことをやりなさい
そのような生を私は宗教的な生と呼ぶ

何の戒律もない
何の規則もない
ただひとつのアプローチがあるだけだ─
それは知性をもって生きるということだ

ゴールド•ナゲッツ

とてもシンプルな言葉です。
この言葉を実践するだけで、人生は楽しいものになります。

エネルギーはひとつです。
そのエネルギーをどう使うかは、私たちしだいです。

人生を苦しみに使うのか、悩みに使うのか、争いのために使うのか、怒りのために使うのか、悲しみのために使うのか、それとも楽しみのために使うのか。

そのエネルギーをどう使うかで「知性」が試されます。
人生を生きるのは、いのちという与えられたひとつのエネルギーをどう使うかなので、それを苦しむことに使っているあいだは、人生を楽しめません。

楽しみのためにそのエネルギーを使っていれば、争うことはできなくなります。
人生には怒りたいこともあるし、悲しいこともあります。
そのときは怒り、悲しめばいいので、そうすることが悪いことではありません。

先日2014年ノーベル平和賞受賞者をマララさんと共に受賞した男性カイラシュ・サティヤルティ氏のTEDでのプレゼンを見ていたら、彼のエネルギーの源は「怒り」なのだそうです。

ですからそこで彼は「怒りなさい!」ということを強調していました。怒りをエネルギーに変えなさい、と。

怒りを個人に向けるのではなく、より大きなものごとをなすエネルギーにすることもできます。
その怒りのエネルギーをどのように使うかも「知性」です。

ところが私たちは、人生を苦しみ、悩み、悲しみ、落ち込みの中に巻き込まれて、不運をなげいてしまうことが多々あります。
しかしまた一方で、想像もつかない不運、苦しみ、悲しみや落ち込みの中から、素晴らしい人生を生きている人たちもいます。

ホーキング博士、ヘレンケラーetc.etc….
何が違うのでしょうか?

ひとつのことが違うだけです。

ただひとつのアプローチがあるだけた─
それは知性をもって生きるということだ

知性をもって生きているかどうかだけです。

知性のある人は、そのエネルギーの使い方を知っている人です。そしてまたそのエネルギーを使うことができる人です。
私たちはそのときどきのエネルギーに使われてしまっていて、そのエネルギーを使うことができないでいます。

それはなぜかというと、マインドに巻き込まれてしまって、それらのエネルギーに巻き込まれてしまっているからです。

そうしたときには自分の苦しみや落ち込みに同一化してしまっているので、そこから抜け出すのが難しくなってしまいます。

エネルギーの使い方、ということでとても印象深いことがありました。

それはOshoのアメリカのコミューンを訪れたときのことです。

そのときにコミューンで亡くなった人がいて、その亡骸を荼毘に付すという場面に遭遇しました。

日本ならお葬式であり、みんなが悲しみの中で見送ります。
ところが、そこではセレブレーション(お祭り)となって、みんなが歌い踊り、そのエネルギーの中で火葬され、みんながそれを囲んで、歌い、踊り、そして瞑想をしたりしながら見送っていたのです。

それはとても美しい光景でした。
日本でのお葬式の雰囲気しか知らなかった私はカルチャーショックを受けました。

と同時に、同じできごとがこれほどまでに変容させることができるのか、ということにも気づかされました。

死について 41の答え」のなかで

私のパートナーは脳腫瘍で死に瀕していますが、まだ意識があります。彼を助けるために、何かできることはありますか?

という質問に答えて、Oshoの次のような講話があります。

瞑想は、人が生きているときに、とてつもなく価値があるし、
 人が死にゆくときにも、とてつもなく価値がある

彼のそばにいて、できる限り幸せでいることだ。
 それが、死にゆく人にさようならを言う唯一の方法なのだ。

 だが人々は、ちょうど反対のことをする。
 死にゆく人の周りで、とても深刻に、悲しく絶望的になる。
 暗い雰囲気を創り出す。

 その人には、少し光が必要だ。
 彼は長い旅に出ようとしている─

 人々が祝いながら彼に別れを告げることを必要としている。

 しかし人々は、それをとても重くしてしまう。
 彼らは、それが友情と共感に満ちたことだと思っているが、
 その人の旅をさらに困難なものにしているのだ。

 みんなの悲しみを見れば、彼はもっと悲しくなる。
 みんながそれほど悲しくなるのだから、
 
死というのはとても悪いものに違いないと考え、
 さらに生にしがみつくようになる。

 死に対して、絶望的に戦うようになる。
 周りの人々も、彼自身も、死が何なのか、分かっていない。
 これは別れを告げるのに、いいやり方ではない。

 そこに音楽があるようにしてごらん、
 光が、笑いがあるようにしてごらん。

 歌を歌い、 愛に満ち、
 彼が別の種類の生へと移行していくのを感じる助けをすることだ─

 死は扉にすぎないのだ。
 古い衣服が脱ぎ捨てられるだけだ、
 彼はよりよい衣服を手に入れるだろう。

 もし彼が笑いながら逝くことができれば、
 あなたはほんとうに彼を助けたのだ。

 彼のそばにいて、どんな形であれ、
 あなたにできるやり方で彼を助けなさい。」

先日11月4日は、昨年5月に突然この世の人ではなくなったヌラの誕生日でした。

普通なら亡くなった人のお誕生日をお祝いするなんてことはしませんが、ちょうどヌラの最愛のラハシャも鎌倉に滞在していたので、ヌラからオーラソーマを教わった人たちにも声をかけて誕生パーティを催しました。

それはみんなにとって、とても楽しい会になりました。

何であれ、楽しいことをやりなさい──
 あなたにとって、あなたの周囲にとって
 楽しいことをやりなさい

人生をどうのように楽しむかは、考え方ひとつです。
苦しみ、悩み、悲しみ、落ち込みはマインド(思考)のエネルギーのあり方です。

そのマインドに同一化してしまっているときは、そのマインドに使われている状態です。
マインドが主人になっているのです。
マインドがあなたの人生を支配しています。

あなたがマインドの主人となったときに、あなたがマインドを使うことができます。

それまでは、苦しみの中にいるときに楽しみなさいといわれても無理な話だし、落ち込んでいるときに楽しみなさい、といわれてもできません。

そんなことを言われても、できるわけがない、と思います。

しかし、感情を直接変えることができなくても、行動や態度を変えることならできます。

そこで行動主義の心理学では、姿勢や態度が感情を作るのだから、落ち込んでいるときや悲しいときでも、上を向いて歩けば気分も変わる、という考えもあります。
実際それもある程度の効果があります。

身体の使い方もエネルギーの使い方であり、感情のエネルギーともリンクしています。
ですから、身体の使い方を変えることで、感情のエネルギーの流れを変えることもできるので、身体の使い方から感情や思考に影響を与えるのはひとつのわかりやすい方法です。

しかし、マインドを使うためにはマインドの同一化から離れることが必要になってきます。
マインドの同一化から離れて、マインドに巻き込まれなくなるようになるもっとも効果的かつ根本的な方法は瞑想です。

そのなかでも、シンプルで簡単な方法がハート瞑想です。

ハート瞑想は、マインドから離れてハートのスペースを見いだし、ハートのスペースを使う瞑想法です。

ハート瞑想の中では、意識の多重構造の表層の世界、マインドや感情の世界を受け入れながらもさらに深い中心の層を体験できます。

そこには、マインドの論理的知性ではない、ハートの直感的知性があります。

通常の定義によると、知性は頭脳(マインド)からのもので、知性的というのは、頭が良い、ぐらいの意味に使われています。

しかしOshoは知識と知性とは区別していて、知識はマインドからのものであり、知性はマインドを超えたものだというふうに語っているのを聞いたことがあります。

Oshoが「知性」というときはマインド(頭脳)からのものではない知性を意味していることが多いです。

ここで「知性をもって生きる」ということも、頭を使って知性的に生きるということでもありますが、同時にマインドに同一化しないで知性を使うということも含んでいるように思われます。

マインドに同一化しないで知性を使うには、ハート瞑想を通して可能になります。