OSHOの重体
OSHOが肉体を離れたのは1990年1月19日のことです。 ですから、OSHOが一時期重体となり、危篤に陥ったのは、そのほぼ1年前のことになります。 このシュンニョの記事を読むと、OSHOはすでに自分の死期をさとって着々…
OSHOが肉体を離れたのは1990年1月19日のことです。 ですから、OSHOが一時期重体となり、危篤に陥ったのは、そのほぼ1年前のことになります。 このシュンニョの記事を読むと、OSHOはすでに自分の死期をさとって着々…
幽霊はいるのかいないのか? 幽霊といえば、通常死者の幽霊ですが、生きた人間でも幽体離脱して幽霊になることもあります。 科学的に考えれば、エントロピーの法則があるので、煙が拡散するように幽霊のような実体は存在しえないとい…
OSHOの講話とともにあることは不思議な空間でした。 最高のエンターテインメントであり、最高の深み、高み、静寂と沈黙の体験でもありました。ありとあらゆる体験が凝縮されていた空間でした。 OSHOのこの時期の講話では、シュ…
OSHOにタリウムの毒を盛ったときのアメリカの大統領はレーガンでした。 レーガン自身は、その後アルツハイマーになって亡くなりましたが、OSHOに盛られた毒は本当にOSHOを苦しめるものでした。 それはOSHOをして「ど…
シュンニョがマスターとともに日々を過ごすのは、ダイヤモンドのように輝けるときもありますが、ダイヤモンドがハード(硬い)のように、同じようにハード(苛酷)なときもありました。 人それぞれの無意識のなかにある条件づけというの…
OSHOの講話は、このブログでも紹介したOSHOのYouTubeの動画のはじめに流れるメッセージにもあるように、彼の言葉を聞くというよりも、そこにある静寂に耳を傾ける感じです。 言葉を聞くよりも、その言葉と言葉のギャップ…
この時期、1987年から1989年にかけて、プーナの瞑想コミューンは活気に溢れていました。 OSHOの講話も活力に溢れたものでした。とはいうものの、OSHOが講話をしなくなる1年ほど前からは、講話の出だしのときの声は、力…
身体の衰弱したOSHOが少しでも歩くことができるようにと作られた「ウォークウェイ」…ガラス張りの遊歩道ですが、ジャングルのように植物が生い茂った庭にあります。今ではビパサナ(静かに坐って、呼吸を見つめる瞑想)に使われてい…
シュンニョのOSHOとのダイヤモンドの日々とは、どのような日々だったのでしょうか? マスターとともにいるというのは、しかも身近にいるというのは、とても大変なことです。 マスターの弟子へのワークは、ダイヤモンドをカットする…
1987年当時、私がプーナの瞑想アシュラムに滞在していたときにも、OSHOがいつ講話に現れ、いつ現れないのかは予測できない事態になってきていました。 そしてOSHOの血液や毛髪などが専門家によって検査されていることなども…