どうして一息に殺さなかったのだろう?

OSHOにタリウムの毒を盛ったときのアメリカの大統領はレーガンでした。

レーガン自身は、その後アルツハイマーになって亡くなりましたが、OSHOに盛られた毒は本当にOSHOを苦しめるものでした。

それはOSHOをして「どうして一息に殺さなかったのだろう?」とまで言わしめるほどのものでした。そんななかでも、彼は最後の命を燃やして講話を続けていたのです。

そんなOSHO があるときシュンニョ(チェタナ)にある提案をします。それは「シュンニョは本を書ける」というものでした。

そして「和尚と過ごしたダイヤモンドの日々」というタイトルをシュンニョに授けたのです。

それは私たちへの贈りものにもなりました。
それがなければ、このようにシュンニョからOSHOの話を聞く機会もなかったでしょうから。

そして、OSHOは「本のためのもの」と言って「シークレット・グループ」のメンバーの名前を書いた図をシュンニョに託しました。

12人の名前と言いながら、実際には13人の名前がありました。しかし、その後まもなくニルヴァーノは不慮の事故で亡くなり、OSHOの言葉どおり12人になりました。

21人の「インナーサークル」の方は、OSHOが肉体を離れたあと、OSHOの瞑想リゾートの運営母体として機能しましたが、「シークレット・グループ」は文字通り知られざるグループに留まったのでした。

シュンニョは語ります。

それから 1カ月がたち、OSHOの健康はさらに悪化に向かいました。
アメリカ政府はなんと残酷な仕打ちをしたのかと、彼は私に何度も言いました。

「どうして一息に殺さなかったのだろう?」と言うのです。

彼の関節の痛みが激化しました。とくに右肩と両腕の関節です。
「両腕が不具になってしまったかのようだ」と、彼は言いました。

歩くとふらつくので、ベッドに横たわっている時間が増えるようになりました。彼の一日は、ますます短くなっていきました。

ある日の彼は、朝5時に起床して風呂を浴び、朝食を済ませ、そして食堂から寝室に戻る途中、私のテーブルのうえの時計を見てこう言いました。

「もう7時だ。私の一日は終わってしまった。また別の日だ!」

朝7時なのに、彼にとっては一日の終わりなのです。
私たちが彼の食事を、朝食、昼食、夕食というふうに呼んでいることで、彼は笑いました。
それらはみんなほんの軽食で、もしも私たちが 「朝食、昼食、夕食」といった言葉を使わなかったら、彼には時間の区別がつかなかっただろうと言うのです。

OSHOは以前にも増して、昼寝をするようになりました。ですから、ニーラムとアナンドと事務的な打ち合せをすることもなくなりました。

 ……

あるときOSHOは 「チェタナが本を書ける」と言いました。
そして彼は『OSHOと過ごしたダイアモンドの日々』というタイトルと『ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ (新金剛般若経)』というサブタイトルを私にくれたのです。

私は彼に言いました。「私がサニヤシンになったとき 『私はあなたにダイアモンドを贈ります』と、あなたへの手紙に書きました。そのときは、自分がどうしてそんな約束をしたのか当惑しました。あなたにダイアモンドを贈れるほどのお金ができることなど、けっしてありそうもないことがわかっていたからです。

OSHOから本を書くように勧められたとき、私は自分がどれほどの贈物をもらったのかに気づいていませんでした。私には、とうとう 一度も彼に感謝する機会がありませんでした。本の内容について彼から助言を受けたことはありません。本を書きだしたのか尋ねられたこともありません。OSHOが 『ダイアモンドの日々』について触れたことは一度だけありましたが、それは不思議な出来事でした。

それは 1998年8月のことです。
OSHOは携帯ベルで私を呼び出しました。呼ばれたのは真夜中でした。

彼がぜんそくの発作を起こしたのかもしれないと心配しながら、私は廊下を急ぎました。扉を開けると、OSHOは完全に目を覚ました状態で、ベッドのうえに座っています。部屋のなかはほとんどまっ暗で、ベッドの脇の小さなランプだけが輝いていました。部屋のなかの冷たい空気とミントの香りで、私はすっかり目を覚ましました。

「ノートを持っておいで」と彼は言いました。
「あなたの本のために言っておきたいことがある」

私はノートとペンを取ってくると、書き留めたものが彼の目にも見えるよう、ベッドのそばに座りました。彼は次に示したような図を私に書かせました。

一連の名前を口にして、それを円状に並べるように言ったのです。
私が正しく書き留めたことを確かめると、彼は横になり、ふたたび眠りにつきました。

私は、この図について彼にあとから尋ねたこともないし、彼との話のなかで口にしたこともありません。書き留めたものを自分のファイルにはさんでおいただけです。

私はこの図について、誰にも話したことはなく、ずっと「これは本のためのもの」と思っていました。
ここで興味深いのは、彼は 「12人の名前」という言葉を使いながら、実際には13人の名前を挙げていることです。
やがてニルヴァーノの名前がそこから消えることになるのですが、その時点では、まだそれはわかっていませんでした。

この8カ月後、OSHOは21人のメンバーからなる「インナーサークル」を創設しました。
前記の「シークレット・グループ」がOSHOから具体的な役割を与えられたことはありません。それは文字どおり、知られざるグループに留まったのです!

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)