宗教的な人、というと仏陀やキリストのように、あるいは昔の僧侶や牧師のように世俗を離れ、神に仕え、悟りの道を説き、その修行に励んでいるもののようなイメージがあったりします。
今では、いわゆるスピリチュアル、という言葉が一般的になっています。
スピリチュアルとは、以前は「精神世界」というカテゴリーでしたが、「スピリチュアリティ」(霊性)と「スピリチュアリズム」(心霊主義)を合わせたような概念として用いられているようです。
もともとはキリスト教由来の言葉で、宗教的・精神的な物事、教会に関する事柄、または、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、教会の、というような意味です。(ウィキペディア)
ここには「超自然的な」、肉体や物質とは区別された「精神的な」ものごとを意味しているようです。
しかしOshoにとっては「宗教的な人」というのは全く異なった意味を帯びています。
自然を超越した人ではなく、全く自然である人。
何ひとつ未踏のままに残していない者
を意味します。
ですから、肉体的なこと、セックスや恋愛、エゴやマインド、ビジネスや遊び、すべてのものごとを探究し、未踏のままに残していない者。
言ってみれば、トータルに、物事に関わって、その瞬間瞬間を生きている人という意味でしょう。
それが精神的なことであろうと肉体的、物質的なことであろうと関係はありません。
トータルであれば、そのものごとのなかに肉体的なことから精神的なことまでのすべての次元を含んでいます。
「セックスから超意識へ」という彼の本は、そういうことについても言及している本です。
私にとって宗教的な人は
自然を超越した者ではなく
完全に自然ーーまったく自然ーーで
自然のあらゆる次元を探索し
何ひとつ未踏のままに残していない者だ
Oshoは「すべての虹の色を生きなさい」という言い方もしています。
レッドからバイオレットまでのすべての光線を生きてこそ、自然な人生といえるでしょう。
なぜなら、自然の光はすべての色をその中に含んでいるのですから。