愛は関係性ではない

OshoはRelationship(関係性)とRelating (関係すること)ということを分けています。

関係性は、例えば恋人になり、婚約者になり、結婚するというふうに、関係性を作り上げていきます。 お互いの契約のようなものです。お互いを束縛し合う関係です。 家族なども、生まれながらの関係性ですし、会社での役割の関係性などもあります。

愛は自由がないところには愛は育たない、ということをOshoが語っているのを聞いたことがあります。

そのような関係性の中での愛を、Oshoは

それはもっとも低い種類の
一―非常に汚れた愛だ
と言っています。

私たちは、愛はひとつの関係性だと
休みなく教えられてきた だから、
私たちはその考えに慣れてしまっている
だが、それは真実ではない
それはもっとも低い種類の
一―非常に汚れた愛だ
愛は存在のひとつのあり方だ

ゴールド•ナゲッツ」 by Osho

それでは、愛は存在のひとつのあり方だというのは、どのような意味でしょうか?

ニーチェは「ツァラトゥストラ」のなかで、人間の三つの精神のタイプを語っています。 ラクダと獅子と幼子です。

ラクダは、なんでも主人の言われたことに服従して、言われるままに何でも、どんなに重たいものでもその背中に背負います。いろんな義務を全部引き受けていくタイプです。 ちょうど両親の言うことにはなんでも「イエス」と言って育つ子供のようなものです。子供は両親の愛を必要とするので、両親の愛を得るために、両親の言うことをなんでも聞いて育ちます。

獅子はライオンとも言われますが、ちょうど思春期の反抗期にある青年のように、言われたことにはなんでも反抗し、「ノー」言います。 これまでこれが正しいと教えられてきたことや権威に疑問を投げかけ、反抗し、反対します。

そして幼子。幼子は純真無垢に何にでも夢中になって遊ぶ子供のようです。なんの先入観も義務もなく、ワクワクとして、その瞬間瞬間に、自由にクリエイティブに応答していく精神の持ち主です。 幼子はラクダやライオンのパターンを超越した存在です。

ニーチェはこの幼子の精神のあり方を「超人」というふうに言っています。 関係性のなかにあるとき、人はラクダかライオンのパターンのなかにいます。 ラクダのように相手の言うことに従い、義務としてものごとを行うか、ライオンのように相手に反抗し、コントロールし、支配しようとするかです。

関係性のパターンは、これらのラクダとラクダ、ラクダとライオン、ライオンとライオンのどれかの関係に分類されます。 親子関係、恋人や夫婦の関係、会社での上司と部下との関係などを思い浮かべると、自分がどのパターンを演じているかがわかるでしょう。

関係性によって、あるいはその状況によって、ラクダになったり、ライオンになったりしているはずです。 Oshoが「愛は存在のひとつのあり方だ」と言うとき、幼子の存在のあり方がそこにあります。

幼子は全くの自由です。 幼子は愛の存在です。

赤ん坊を見るだけで愛情が湧いてくるのは、赤ん坊が愛の存在であり、その愛に自分の内側の愛が共鳴するからです。 幼子は過去も未来もなく、ただ今ここにいて、内なる愛からその瞬間瞬間に、純粋無垢に応答しています。

それが愛の存在のあり方です。 

今日はここまでにします。

えたに