はじめに静寂ありき
In the Beginning There Was Silence
これは、キリスト教の聖書のもっとも根本的な言明に、真っ向から挑発する議論です。
アメリカではディベートが盛んです。 民主主義の国では、議論によって物事を決めるという習慣があるということにもよるのかもしれません。
西洋が契約を重んじるということも、この神の言葉が最初にあったということにも関連するのかもしれません。
その聖書の根本的とも言える言葉にOshoは議論をふっかけているわけですが、キリスト教としてはどのように反論するのかを聞いてみたいところです。
<質問> 「キリスト教の聖書は 『はじめに言葉ありき』と始まります。 同意されますか?」
Osho
「天地創造はなかったのに
どうして『はじめ』が存在しうる?
天地創造は持続的だ
それは創造性だ
後ろに戻っても
あなたははじめを見つけはしないだろう
前に進んでも
あなたは終わりを見つけはしないだろう
それは始まりも終わりもない
創造のエネルギーだ
だから そもそも
はじめなどなかった
神は世界を創造しなかった
神はいない
そして聖書は言う
『はじめに言葉ありき』
これはもっとも馬鹿げたものの言い方だ
もし 議論をするために
仮に はじめがあったとするならば
私なら『はじめに静寂ありき』
と言うだろう
どうして 最初に『言葉』があったと
言えるのか?
ちょっと考えてごらん
どうしたら
最初に言葉があり得るのか?
では 言葉の前には何があったのか?
もちろん 言葉がそれを破る前に
そこには静寂があったはずだ
そして静寂には それ以上の意味がある」
静寂の意味については、Oshoから直接聞いてくださいね。
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今日はここまでにします。
えたに