不幸の原因

私の好きなお話に、

「ただほど高いものはない。」

という話があります。

普通は「ただほど高いものはない」というと、タダだと思っていたら、後でひどい目にあったということを言います。タダだと思っていたら、後で高いものを買わされたり、欠陥商品だったり、後で色々お願い事をされて困ったというようなことだったりします。

でも私が好きなお話というのはそうではなくて、「タダだと思っているものの中にこそ、本当に大切なものがある」ということです。

例えば、この体、目や耳や手。そしてこの命。

それを手に入れるために何かを支払ったわけではありません。でも、たとえ1億で売ってくれと言われても自分の命や目を売りたいとは思いません。

それは一度命を失いかけたり、目が見えなくなるかも、という経験をした人はよくわかるでしょう。まだそういう経験をしていなくても、死ぬ間際になれば、いずれわかることでしょう。

値段がつけられないほど高価なものをすでに私たちは持っているのです。

目に見える体や目だけではなく、さらに目に見えない宝物を私たちは内側に持っている、と仏陀は語っています。

それは後で述べるとして、Oshoは次のように語っています。

 

人が常に不幸なのは、
自分の持てるものを忘れ、
手に入らないものを得ようとするからだ。

生に対してこのような基盤を持つのは、
完全に間違っている。
自分の持てるものを理解し、
それをもとに生きる人間になりなさい。

どこかで読んだのだが、
ある男がもう一人に不満をもらしていた。

「僕はひどく貧乏で、何も持っていないんだ」
するともう一人の男は言った。

「君がそれほど貧乏なら、
ひとつできることがある。
わたしは君の右目が欲しい。
五千ルピー出そう。
五千ルピー取って、右目を渡すんだ」

最初の男は言った。
「そいつはとても無理だ。右目は渡せないよ」

すると相手は持ちかけた。
「両目で一万ルピー出そう」

再び最初の男は答えた。
「1万ルピー!だが、それでも目は渡せない」

ついに、相手は持ちかけてきた。
「君の命をくれるなら、五万ルピー出そう」

このとき最初の男は言った。
「でもそれは不可能だ!自分の命は渡せない」

相手の男は言った。

「つまり、君は価値あるものを
たくさん持っているということだ。 
1万ルピーでも売れない両目があり、
命がある――
なのに君は何も持っていない
と言っていたのだ!」

あなたが持っているものを尊重しなさい
――たとえささやかであろうと、
瞑想を通して体験したこともだ。

そのことを思い、そのことを語りなさい。
なぜなら体験するか否かは、こ
の考え方により大きく左右されるからだ――

そして楽天性はさらに多くのことを生み出す。

仏陀はこの命や目よりもさらに高価な宝物をあなたは持っている、と語っています。

それが瞑想によってに見つけられるものです。

それは法華経七喩の一つで「衣裏宝珠の喩え」と言われています。

それはこういうお話です。

「あるとき貧乏な男が道でばったり昔の親友に出会いました。その親友はお金持ちだったので、そのみすぼらしい友人を自宅に招いてご馳走をして酒を飲んでいるうちにその貧乏な友人は酔っぱらって眠ってしまいました。

そこへ遠方からの急な知らせがあったので外出することになり、お金持ちの男は友人を起こそうとしたが起きなかったので、お金に困らないようにと思って彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけました。

酔いから覚めた男はそうとは知らずに起き上がると、友人がいなくなっていたので、また元の貧乏な生活に戻って他国を流浪して貧乏な生活をしていました。

そしているうちにまたばったりとお金持ちの親友に出会いました。そのお金持ちは、貧乏な姿をしている友人を見て、驚いて言いました。

「おまえはどうしてそんなみすぼらしい生活をしているのだ。昔おまえに会ったとき、お金に困らないようにと思って、おまえの服の裏に高価な宝石を縫い付けておいたのに。それを売れば豊かで何不自由ない生活ができたのに」と。

この物語はお釈迦様の譬え話なのでいろんな解釈がありますが、金持ちである親友とは仏で、貧乏人とは衆生でその宝珠とは仏性のことだ解釈するのがシンプルな解釈です。

つまり誰もが仏性を持っていて、それは衣裏つまり心の中にあるもので、そのことに気づけば何物にも変えがたい宝物がある、と。

そのことに気づく方便として仏陀やOshoは瞑想の道を説いているわけです。

それでは今日も、今あるものに感謝して。

えたに