死ぬ方法とは言っても、自殺のススメではありません。
と書いてみましたが、よく考えると、自殺のススメなのかもしれません。
まず、死ぬ方法について書く前に、死とは何かを先に定義する必要がありそうです。
死を、肉体の死に限ると、話は単純です。
とは言え、現代医療が進むと、その死の定義さえもいろいろと困難な問題が生じています。
普通はお医者さんが患者の腕の脈拍を計って、心拍が停止して、自発呼吸が停止し、瞳孔が開いているのを確認して、「ご臨終です」と宣言して、死んだとみなされます。
しかし、医師が死んだと診断したにもかかわらず生き返って、臨死体験を報告した事例などもあります。
臓器移植の観点から、「脳死」ということが議論されたりもしました。
このような肉体の死についての議論はさておいて、私がここで「死」として考えようとしているのは、「そもそも肉体の死が死なのか?」ということも含めてのことです。
肉体の死は確実で、誰もそれを避けることはできません。
この肉体の死が全てであるとすれば、肉体の死によってこの生きていることの全てが終わります。
だとすれば、この生は何のためなのでしょうか?
ということが次の問いになります。
つまり、死について考えることは、生きるということについて考えることになります。
あなたは死とはどういうことだと思いますか?
あなたにとって生きるとはどういう意味があるのでしょうか?
この二つはある意味同じ問いです。
「死こそ、核心となる問いだからだ。
ひとたびその問いがハートにやって来れば、
あなたの生き方は変わらざるをえない
もはや愚かで古くさい生き方を続ける
ことはできなくなる。
もし死で終わるものなら、
この生は真の生ではありえず、
幻に違いない。
もしそれが真実ならば、
永遠であるはずだ
─嘘だけが、つかの間のものだからだ。
もしこの生がつかの間のものであれば、
それは幻であり、偽り、思い違い、
誤解であり、どこか無知に根づいている
に違いない
私たちは、終わりを迎えるようなやり方で
生きているに違いない
違う生き方をすることも可能だ
存在という永遠の流れの一部となる
ような生き方も、私たちにはできるのだ
死だけが、そうした根本的なシフトを
もたらすことができる。」
「死について 41の答え」 Osho
これは仏陀の問いでもありました。
その問いによって、彼は王子であることを捨てて出家し、修行の道に入ったのでした。
それが、私がテイクサニヤス(Oshoの弟子になる)をした理由でもありました。
死ぬ方法はいくつかあると書きましたが、その一つの方法が、テイクサニヤスということです。
死ぬ前に死ぬ、方法です。
サニヤシンというのは、インドでは伝統的に遊行僧のことを言いますが、いわゆる世捨て人でもあり、これまでの世間での行き方を捨てた人でもありました。
とはいえ、Oshoは世捨て人であることには反対で、世間の中にいることを教えているので、ネオ(new) サニヤスと言われています。
私の大好きな至道無難の句に、
生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするざわぞよき
という言葉があります。
「生きながら死人となる」とは、肉体としては生きていながら、それまで自分と思っていたエゴとしては死ぬ。
そのような小さな自分から解き放たれた自由な心境を歌っているように思われます。
「もしこの生がつかの間のものであれば、
それは幻であり、偽り、思い違い、
誤解であり、どこか無知に根づいている
に違いない
私たちは、終わりを迎えるようなやり方で
生きているに違いない
違う生き方をすることも可能だ
存在という永遠の流れの一部と
なるような生き方も、私たちにはできるのだ
死だけが、そうした根本的なシフトを
もたらすことができる 」
つまり、これまでの自分としては死ぬことで、今までとは違う行き方をする。
そのコミットがテイクサニヤスの意味することです。
存在という永遠の流れの一部となるような生き方が可能になるなら、そのような生き方を求めてみたい、という願いからのテイクサニヤスでした。
とはいえ、それはそう簡単なことでもありません。
だから肉体が死んだ後もエゴの欲望は生き残って輪廻転生したりするのですから、ある意味、エゴや欲望が死ぬことは肉体が死ことよりも難しいともいえます。
続きは次回に。
今日はここまでにします。
えたに