条件付けに気づくということ

自分の条件付けに気づくということは、なかなか自分ひとりではできません。

自分の条件付けから目覚めるためには目覚めた人が必要です。
なぜなら自分の条件付けが盲点を作っているので、そのことに自分で気づくのは至難の業だからです。

道を歩いていて、その道の先に落とし穴があるとします。
目が見えていればその落とし穴を避けることは簡単なことですが、目隠しをして歩いていたとすれば、その落とし穴に気づかずに落っこちてしまいます。

対人関係における気づきのモデルに「ジョハリの窓」というのがあります。

サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフトとハリー・インガムが提唱したモデルで、二人の名前を取って「ジョハリ」の窓と呼ばれています。

自己には「公開された自己」(開放の窓) と「隠された自己」(秘密の窓) があると共に、「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」(盲点の窓) と「誰からもまだ知られていない自己」(未知の窓) から成り立っているというものです。

ここでの無意識の条件づけというのは「盲点の窓」と「未知の窓」に属するでしょう。

真のマスターから見れば、秘密の窓も含めて、すべてお見通し、ということになります。

どうしてそれらの条件付けは無意識にあって、自分でも見えないのでしょうか?

それは自分自身さえからも隠しておきたいことだったりもします。
なぜなら、その事実を見ることは自分のエゴが傷つくようなことだったりするからです。

あるいは巧妙に洗脳されていて、自分自身では気づかないほどに無意識のなかに埋め込まれているプログラムであったりもします。

マニーシャはクリスチャンの学校で看護婦になる訓練を受け、看護は善行で、病人を世話するのは偉大なる善行だというふうに教えられてきていました。

それ自体はよいことであり、問題ではありません。
しかしそれが条件付けとして作用するようになると、偽善になってしまう危険があります。

そしてそれが無意識のプログラムとして埋め込まれてしまって、その条件付けから反応し、行動するようになってしまうと、真の自分が隠されてしまい、偽善的な人格の仮面をかぶった人生を送る危険が生じてきます。

マニーシャはOshoとのやりとりのなかで、深く自分自身に埋め込まれているクリスチャンとしての条件付けに気づいていきます。

このプロセスは、彼女自身のことだけではなく、私たちそれぞれのなかに、さまざまな形で埋め込まれているプログラムに気づいていくための模範になります。

無意識の条件付けから目覚めていくためのプロセスとして、とても学びになる模範例をマニーシャは提供してくれています。

マニーシャは書いています。

「数ヶ月がたち、夜眠りに就くときに使っている、観照を助けるための催眠テクニックについて、講話の時間に質問する。

Oshoはそれは素晴らしい瞑想だが、催眠と呼ばないようにと言う。

なぜならキリスト教のお陰で、その呼び方は誤った意味づけをされているからだ、と。

災難はクリスチャンだけが被ったわけではない。世界中が被った。だがクリスチャンの人々はとりわけ、そしてマニーシャは特に……」とOshoは言い、

彼女はクリスチャンの学校で看護婦になる訓練を受けた。看護は善行だ。病人を世話するのは偉大なる善行だ。あの世で大きな褒美を受け取るだろう

マニーシャは深い無意識のレベルで、クリスチャンの深い無意識のしつけを身に付けている

私はOshoが言ったことを不快に感じ、それによって傷ついたというよりも、むしろ興味を引かれずにはいられなかった。

思春期の私は極端に理想主義的で、全世界を私の愛他主義の対象にするべく決意していたのは事実だ。

カルカッタから始めてーーそこは想像しうる最悪の場所に見えたがーー私はこの世で病み苦しんでいる人たちすべての世話をするつもりでいた。

Oshoの話を聞くうちに、他人の世話をすること自体は決して悪いことではないが、それが条件づけから来る反応だとしたら、それはまったく無意識のものだと理解し始めた。

他人の苦しみに対する思いやりは、私自身の理解から来るものではない。それはクリスチャンとして頭に入力されたプログラムにすぎずーー誠意や洞察からではないし、私自身の選択からでさえない。

いま思うとおそろしくなるが、少なくともこのことに関して私はロボットのように反応することしか知らず、人の苦しみにどう応えるか、自分自身の選択の余地は、まったく残されていなかった。

ロシアの科学者パブロフはある実験で、実験対象の犬に食べ物を与えるとき、必ずベルを鳴らすようにした。

食べ物を目にし、その匂いを嗅いだ犬は唾液を分泌し始める。この過程を何度も繰り返し、ベルの音と食べ物と唾液分泌との関連性が犬の中にしみ込むと、次にパブロフは犬に食べ物を出さず、ただベルだけを鳴らした。すると、それだけで犬は唾液を分泌し続けた。

刺激Aーーベルの音ーーは、反応Bーー唾液分泌ーーを起こさせた。苦しみに対する私の反応は、この犬の反応とさほど変わらない。どうやら私は、かなり重症のクリスチャン病にかかっているようだった。

それから数ヶ月後、Oshoに自分が続けている、ある試みについて質問する。

それは日常生活の行為や感情を体験しながら、同時に私の内なる仏性への気づきを持ち続けるというものだ。

Oshoが言うように、俳優が役を演じるごとく、行為や感情と私自身の閧に一定の距離を保つのだ。

Oshoへの質問にこう書く

たとえば私は、より愛情深く振る舞えば振る舞うほど、自分が愛情深いと感じます」

私は、彼の言ったことをまったく誤解していた。素早く痛列な一打が与えられる。

あなたがしているのは偽善を深めることだと、彼は言う。

それはあなた自身を催眠にかけることにもなる。これは古くから使われている策略だ。

『あたかも愛しているように振る舞う』その″あたかも″は間もなく忘れられ、あなたは自分が愛していると思い始める。しかしこの愛は”あたかも″偽善者の愛だ」

「私はあなたがたに″あたかも″で始めてほしくない」

Oshoは続ける

ブッダそのものになりなさい。なぜ’あたかも”なのだ? 私はあなたがたに俳優のように演じてほしくない。真正でありなさい。正直でありなさい、結果がどうなろうと、全面的に誠実でありなさい。

決してあなたの真実の中心から外れないように

私についてOshoが語ることに、何らかの真実があるのだろうか? 彼は碓実に私を揺さぶった。

私は偽善者のレッテルに打ちのめされ、思わず恥ずかしさに顔が赤くなる。ということは何かがそこにあるからに違いない。

その日から数日、数週間、数ヶ月とたつにつれ、他人との関り方の中に、偽善的で確実にクリスチャン的な何かがあるのに気づき始めた。

常に明るく振る舞い、世間に対して良い顔を見せるべきだと思い込んできた。そして人間関係の軋轢には、非常に居心地の悪さを覚えた。

そのこと自体別に悪いことではないが、ただいけないのは、すべてをうまく運びたいという思いから、偽物の調和をもたらそうとしたことだった。
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気づき始めると、さらに自分の心の奥底に生息するクリスチャンの特徴を把握し始める。

理想や完璧主義は、自分自身に対して高い基準を掲げさせてきたことに気づき始める。それに達せないと、自分を激しく批判した。             

たとえば、自分の中の怒りや憎しみや嫉妬などが掻き立てられると、私は相手や自分に対して、間違っているとか悪いとか醜いなどと決めつけ、その状況を調整しようとした。

そして当然、自分自身に要求することを相手にも要求した。「誰もが完璧であるべきよ、さもなければ見てなさいよ!」

傲慢さと心の狭さ、そこには一本の道しかなく、その道の上には「私」がいてクリスチャンが顔を覗かせていたのだ。

しかし、私の条件づけのもっとも深刻な面の正体を明らかにするには導師(マスター)を必要とした。

そして、それは再び講話中にやって来た……

私の見るかぎり、自分自身について何か気づかされる状況を、Oshoが意図的に作ることはなかった。

私たちがその糸口を与えるまでは、彼のほうから何かをするということもなかった。

彼の表現を借りるなら、彼は触媒にすぎないのだ。

ひどい風邪をひいて寝込んでいる、ある友人を見舞いに出掛けたことで舞台を用意したのはこの私だった。」

和尚との至高の瞬間