マニーシャの週末のワークショップ「OSHOバルド」が終りました。
やはり死についていろいろと考えてはいても、実際に2日間の時間を取って、死に向かい合うことで多くの気づきと洞察が生まれてきます。
死に関しては人それぞれの状況があります。
自分が死に直面していたり、両親や肉親の死に直面している人、あるいは両親を亡くしてその死を受け入れられない人、今の人生を十分に生きることができない人、人生で何をしていいかわからなくなっている人。
死にあたっては、何かをやり残していることがあったり、あるいは後悔を残して死んでいく人がほとんどだと言います。
そのような後悔を残した人生にはならないようにしたい、ということを身にしみて感じる2日間でした。
自分は好きなことをしていて後悔などないと思っていたのですが、トータリティという面ではやはりまだ自分の中での不燃焼感があり、そのことに気づけたのは大きなことでした。
マニーシャが、ダンスをトータルしているときには、そのピークになったときにはそのまま死んでもいいという感覚になるという話をしてくれていて、生のピークで死を体験するという感覚。
そういう感覚とともに毎瞬を生きていければいいなと思いました。
死を体験することは、生のピークを生きることでもあるのです。
実際の「OSHOバルド」のガイドは2日目の午後に、マニーシャ自身の声によるライブで行なわれました。世界初の「OSHOバルド」の体験です。
そこに至るまでに、マニーシャの話や質疑応答へのアドバイスがあり、瞑想を深めていくためのエクササイズや瞑想の体験を深めていくための機会があり、瞑想することや生きること、死ぬことについてもさまざまな洞察を得られるものでした。
個人セッションの通訳も務める機会がありましたが、さすが、OSHOと身近にいて、OSHOとの質疑応答をしてきた人だけあって、マニーシャのクリヤーでダイレクトな対応はさすがです。
ワークショップでは、自分自身の体験のみならず、参加者の人たちとの話し合いやシェアリングなどによって、自分だけではなかなか得られない洞察や体験を知ることにもなり、そのことがさらにみんなの体験と気づきを深めていってくれるので、とても凝縮された時間を過ごすことになります。
ひとりで取り組んでも1年かかるだけの気づきや洞察が2日間で体験できる感じです。あるいはひとりで取り組んでいるだけだと得られない気づきもあるので、一生かけても得られない気づきを、この機会に得られることもあります。
「OSHOバルド」でのことは和尚アートユニティのスタッフブログでもレポートされています。
「OSHOバルド」では、自分の死に向き合う機会と体験を深めていきました。
今週末は、死の恐怖に向き合うことと、実際に死の恐怖を抱えている人や死に直面している人たちを助けるための方法やテクニックを教えていくことになります。
両親や友人が死んでいくにあたって、自分はなにができるのだろうか?
死に対しては無力な自分を感じますが、このマニーシャの死にさいしての方法は、死に逝く人への最高の贈りものになるでしょう。
そしてもちろん、それは自分が死んでいくこと、生きていくことへの最大の贈りものでもあります。
10月10日(土)~12日(月•祝)です。
死は生きることの一部として起こっています。
死を見つめることは今の生を見つめることでもあります。
この貴重な機会をお見逃しなく。
今回のマニーシャのお話は「愛と信頼」について。そしてそれらを超えたところにある体験についてです。
これはマスターと弟子との間に起こったできごとですが、その一瞬の体験は、人生の神秘です。
マニーシャは語ります。
「このことがあって間もなく、ある日の講話中、私はOSHOの目を見つめているうちに、一点の曇りもない、純粋で、無言の出会いを体験する。それはほん数秒間のことにすぎないが、非常に強烈だ。
この出会いがあって初めて、私は白分たちの感情のどれもが、それに比べれば何とべたべたして、煩わしく、閉ざされているものなのかを見ることができる。
いまの私は、信頼は実際、そういったべたべたしたものとはまた別の感情なのを知っている……
たぶんそれは、愛よりシンプルで、愛より純粋だが、やはり信頼は感情の世界に属する……そして感情は、このもっとも精妙な交感には粗雑すぎるもののように感じられる。
そして、私の知る未孰なたぐいの愛と信頼は、どちらもその正反対に変わる可能性を持っている。
私の愛はその中に憎しみの可能性を宿し、信頼は背信を宿す。
愛、そして信頼さえもあなたへの架け橋とはならないと思う、とOSHOへの質問に書く。そして、彼の目を見つめていたときに体験したことを、質問の中で伝える。
OSHOは答えてくれる。
「愛と信頼はあなたがたと私との関係の中で大切なものだが、それらは踏み石にすぎない。
愛は信頼への架け橋であり、信頼は『彼方のもの』への架け橋だ。
それは、どんな言語にもそれを表す言葉が存在しえないものだ。それは体験だ」。
OSHOはこう説明する。
「それが、私の目を見つめていて、ある瞬間に起こったに違いない」
愛と信頼は、憎しみと復讐に変わりうる……しかしいったん、信頼を越えたところにあるスペースを味わったなら、それが引き返し不可能な地点だ、とOSHOは付け加える。
「全面的な信頼が導く、その呼び名を持たない現象は、関係性ではない。それは合一だ。
ふたりは消える。その中では誰が弟子で誰が導師か、分けることは困難だ。それはひとつの輪、一極になる……
しかし、一度あなたがそれを味わったら、愛と信頼などまったくみすぼらしく見える。
あなたは豊かさを知った。それはほんの数秒のことだったかもしれない。だがそれは問題ではない」
あの言葉の介在しない出会いについて、OSHOに質問してから一年ほどたった。OSHOはあまりにも深く私に浸透しているので、彼との「関係性」とか「繋がり」といった、ある種の距離を暗示する言葉はふさわしく感じられない。
゛ ` ゜
誰かと近しいと言うとき、その距離がどんなに僅かなものであれ、ふたりは分かたれている。
自分の血や脊髄と「関係性」や「繋がり」を持つとも言わないし、心臓の鼓動を近しく感じるとも言わない。
血や骨髄や鼓動は、自分の生命と切り離せないものだ。それらなしでは生きる意味がないのではなくーー愛と信頼を失ったときのようにーー生きること自体が不可能になる。
私にとってOSHOはそういう存在だ。彼は私の摂る食べ物や栄養ではない。彼は私の一部なのだ。
もはやそれを変えることは不可能だ。もう戻れない。もう引き返せない。
私はすでに、引き返すことのできない地点を通り越していた。
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