「私の指し示すものを見て、私の指にとらわれないように」という意味のことをOSHOが何度か語るのを聞いたことがあります。
OSHOのような人に出会うと、そのあまりの美しさに我を忘れて、OSHOのようになりたいと思ってしまうものです。
映画スターや素敵な人を見ると、自分のことはさておいて、あんなふうになりたいと憧れてしまうのと同じです。
しかしOSHOは「誰か他の人になるのではなく、自分自身になりなさい」ということを語ります。
「月をさす指」の話は竜樹菩薩の大智度論にありますが、「私は指で月を指し示しているのに、どうして指を見て、月を見ないのか?」という話があります。
禅などの考え方だと、「言葉=指」にとらわれずに「真理=月」をみなさいという意味になるのでしょう。
禅の教えに「直指人心、見性成仏」という言葉があります。
言葉によるのではなく、心の奥底に内在する本当の自分(仏性)に直接端的に気づき、自分が仏心仏性であることを悟りなさい、という意味です。
OSHOの最後の言葉、「自分がブッダであることを覚えていなさい、サマサティ」というのもこの意味に近いように思われます。
自分がまだ自立していない子供が、両親が病気で倒れ、その死に直面したら、どのように感じるでしょうか?
OSHOが病気で講話に出られなくなった時期というのは、OSHOのサニヤシン(弟子)たちはそういう両親の死に直面した子供のような心境だったのかも知れません。
お釈迦さまが亡くなる間際に、長年ずっとお釈迦さまに付き従っていた一番弟子阿難陀さえも、「私はどうしたらよいのでしょう?」とお釈迦さまに聞いたというぐらいなので、偉大な人が亡くなる時というのは、まわりの人たちはあまりにその人に依存してしまうのでしょう。
しかしOSHOはその状況さえも、次のステップへの教えとして使いました。
私は月を指し示しているだけだ。私の指にとらわれないように。私は道を指し示しているだけだ。
その道を歩くのはあなた自身だ、と。
マニーシャは語ります。
「健康状態が優れないために、ときどきOSHOは講話に出て来られないことがある。
私がサニヤシンになって15年たつ今日この頃、OSHOの不在はより頻繁になっている。
彼の具合が良くないときも、私たちはビデオに収められた以前の講話を聞いて瞑想するために、ブッダホールに集まる。
私はいつも、OSHOの不在に落ち着きを失った。ありふれた風邪でも、彼のように繊細な体には、大きな打撃を与えうる。
そんなときいつも私は、これでおしまいなのかしら? と恐れたものだ。彼は今回も頑張り通せるのだろうか?
あるサニヤシンがOSHOに宛てた手紙に、OSHOが講話に出て来ないときはいつも、まるで突然足元の絨毯を引っ張られたように感じる、と書く。
OSHOはそれに、彼がいなくなったら私たちがどうなるかを見る機会を与えるのが、この実習の目的そのものだ、と答える。だからたまに、病気の[ふりをする]と言った。
『あなたがたは、だんだん私の音楽、私の詩、私の絵になり始める。私はそれを望んでいない』
彼は続ける。
『あなたはあなた自身の音楽、あなた自身の詩でなければならない。
ただあなた自身になるべきだ……そうなれば私なしで、より大いなる体験と歓喜、そしてさらに輝きに満ちた瞬間さえも手にするだろう』
『私はただ道を示しているだけだ』」
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