私は誰なのか

速水御舟の描いた「炎舞」という絵があります。

「飛んで火に入る夏の虫」と言ってしまえばそれまでですが、なぜかこの絵には惹かれるものがあって好きな絵です。

今回のマニーシャの書いていることを読んでいて、この絵が思い浮かびました。

「そうか、マスターに近づくということは、何かこの火に飛び込む蛾に似ているな」と思ったのです。

「蛾」と「我」が似ているというのも象徴的です。

暗闇を飛ぶ蛾は光を求めて炎に飛び込んでしまうわけですが、暗闇に迷っている私たちも、光をマスターに求めて飛び込むわけですが、そこで我を失うことになるのです。

マスターとともにいることは、今まで自分だと思っていた「私という定義」や「人格」、自分でつくりだした「私」という境界線が消えていくことになります。

名前というものは、最も自分が同一化しているもののひとつです。

「あなたは誰ですか?」と人から聞かれると、まず自分の名前で答えます。

でも名前が本当の自分であるわけではありません。

弟子になったときに、マスターから新たな名前をもらいます。
それは今まで自分だと思っていた過去と断絶することでもあります。

今まで自分だと思っていたものから離れて、新たに再誕生する瞬間でもあるわけです。

そこからは未知なる人生を歩むことにもなるわけですが、より本質的な自己を求めての旅でもありました。

炎に舞う蛾は火に飛び込んで何を得たのか? 
それは飛び込んだもののみぞ知る境地なのでしょう。

マニーシャは書いています。

「最近の私は、Oshoは誰なのかなどと考えたりしない。導師とともにあり、彼の臨在を生の基軸として生きることは、広漠たる広がりと、未知なるものとともに生きることを意味する。

その広がりとともに、そして私自身の広がりの感覚とともに生きることに、新しい歓びを感じている。

たしかに瞑想中、エネルギーによって自分を無限大に感じるスペースへと導かれ、洞察を得たことがあった。

だがいまは、以前自分に押しつけてきた「私」という定義が消えてゆくのを、日常生活の中で感じることができる。

私は人格が越えたところに存在するスペースに向かって手探りを始めた。
そのスペースは名前も形も持たないが、より本質的な自己であると知っている。

いま、そのスペースに向かって手探りを始めた、というのは正確ではないかもしれない。

振り返ると、そのプロセスは、私がサニヤシンになったときに始まったと言える。

サニヤシンとなり、新しい名前を受け取ることは、自分自身と社会によって作り上げられた人格を捨てることを意昧する。

新しい名前を受け取るのは、まったく新しくなることだった。

サニヤスーーOshoの弟子となることーーは、私をはめ込んでいた一定の粋のネジを弛めることを意味する。

それは、私か誰なのかという自分自身の捉え方に起こった、果てしなく続く変化の始まりだった。

それは自分でつくりだした「私」という境界線を越えるようにと、風になびく柳のように、絶え間なく私を手招いている導師に近づくことだ。」

和尚との至高の瞬間