怒りと瞑想

瞑想とはより意識的になることであり、気づきをもたらすものである、ということがわかれば「瞑想」の定義はより多くの可能性をもち、瞑想の機会も増えることになります。

単に坐禅をしたり、呼吸を見つめたり、ヨガのエクササイズをしたりして瞑想の境地を楽しむことだけが瞑想ではなく、日々日常のマインドや感情に気づきをもたらし、自分の行動に意識的になることも瞑想になるということがわかってきます。

そうすると、無意識であるということがどういうことかがわかるようになり、自分の無意識にも気づきの光をもたらすことができるようになってきます。

そういうふうに瞑想するということの定義を広くすると、Oshoの本の読み方も変わってきます。

Oshoの本にはいたるところに瞑想のヒントが散りばめられてあり、彼の講話を聴くこと、読むことそのものが瞑想になってきます。

あるときOshoの本を読んでいて、「くしゃみ」に気づきをもたらす方法のことが書かれてありました。つまり、くしゃみに気づきをもたらすと、くしゃみが消えるというのです。

それもくしゃみがやってきて、ごく微妙な段階で気づく必要があり、それがすでにそれとわかるほどに大きくなると、もはやそのくしゃみを止めることができなくなるけれども、ごく微妙な段階に気づきをもたらせば、くしゃみを押さえようとするまでもなく、自然に消滅する、と。

それを読んだ私は「これは面白そうだ」と思って、くしゃみを瞑想にすることにしました。

それからは、くしゃみが出そうになったときには、そこに気づきの光をもたらす、ということをゲームのようにしてくしゃみの瞑想をやっていた時期があります。

そうすると、くしゃみに対する感受性、気づきが繊細になり、十分早い段階でくしゃみがやってくることに気づき、そのくしゃみの感覚に気づきをもたらすことができたときには、くしゃみは自然に消えることを発見しました。

実は、このコツは感情に瞑想するときにも使えるのです。

例えば、怒りを感じたとします。

Oshoは「ネガティブな感情は気づきをもたらせば消える」というふうに話しているのを読んだことがあります。

そして怒りがやってきたときに、それが小さい段階で気づけばそれは消えるけれども、その感情が大きくなってしまってからだと、気づきが強くないとその感情を止めることが難しくなり、たいていは怒りを相手にぶつけてから気がつく、と。

例えば、その怒りの感情のエネルギーに気づくように練習していくと、怒りのエネルギーに気づくタイミングが早くなってきます。
最初のうちは怒って、相手に怒りをぶつけてしまってからあとで後悔することになります。

しかし、しだいに怒りの感情に気づく段階が早まってくるようになります。
そうすると、自分が怒っているときに、相手に怒りながらも、その怒り感情のエネルギー気づくようになってきます。
でも、すでに怒りの感情を相手にぶつけているので、その怒りは収まらず、そのまま怒りをぶつけることになります。

さらに練習していくと、怒りの感情のエネルギーに対する感受性が繊細になり、怒りの感情がやってきているということにも気づくようになります。
そうすると、その怒りを相手にぶつけることをする前に、その状況を回避できるようになってきます。

さらに、その怒りの感情がやってくるごく初期の段階に気づくようになると、その感情に気づくことで、その怒りの感情がおさまるようにもなります。

「それはちょうどマッチの火を吹き消すようなものであり、マッチの火だと簡単に吹き消すことができるけれども、それが大きくなり、他のものに燃え移るほどに火が大きくなると消すのが難しくなるようなものだ」とOshoは言っています。

それはちょうど、くしゃみがやってくるのを、ごく初期の段階で気づけば、そのくしゃみが消える、という感覚に近いものがあります。

これは自分でも実験してみるといいと思いますが、まさにその通りであることがわかります。

最初は怒りを相手にぶつけてから、あとで後悔し、そのうちに怒っているときに自分が怒っているのに気づくけれども、その怒りは止めることができません。

それはなかなか面白い経験です。
「あ、自分は怒っている」っていうことに気づきながら、わかっていても止められず怒っているのです。

でも、そのうちに、気づきがあるときには、「あ、怒りがやってきている」というエネルギーに気づくようになります。そしてそのエネルギーを観ていると、それがそのまま過ぎ去っていったり、小さな怒りのときはそのまま消えていったりするときもあります。

そうすると、自分の感情を抑圧するのではなく、瞑想とともにだんだんそれらの感情に対応することができるようになっていきます。

そのように自分の感情に距離をおいて観ることができるようになっていくと、怒ってもいいし、怒らなくてもいいし、それは自分の選択なんだということにも気づくようになってきます。

そうなると、自分が幸せでいることもできるし、不幸せになることもできるし、それも自分の選択なんだな、ということもわかるようになります。
そうなると、人生は深刻なものではなくなり、もう少し気楽なものにもなってきます。

そうすると、人生には辛いことや悲しいことはもちろんあるけれども、それはジェットコースターにのっているようなもので、怖いときには、キャーッと叫ぶことを楽しめばいいだけだっていうふうにも思えます。

だって、でなければお金を出してジェットコースターに乗ったりホラー映画を見たり、悲しくなる小説を読んだりしませんよね。

そういうふうに気づくことをゲームにしていけば、人生も小説を読むように楽しめるようにもなってきます。

マニーシャは、彼女自身の怒りについての瞑想のプロセスを、以下のように書いています。

私は、怒ると自分に何が起こるのかについても、より意識的になっている。

まず第一に、怒ることによって得るものがあるからこそ、怒っているときは気づきを失い続けるのに違いないと思えた。

私のある部分はまだ怒っていたいし、怒り続けるためには、無意識でなければならない。

怒ったとき、何を得るのかをつきとめようとして、私は自分の感覚を見つめる。そして私は激怒に伴うアドレナリンのラッシュを楽しんでいる自分を発見する。

それは、私は強い、私は正しいと思うパワーのうねりだ。
だがそのラッシュ、自己正当化の怒りの熱は、長く続かないことに気づく。
それはほんの数秒、数分、ときに数時間続くこともあるが、必ず消える。

そのあとには、苦い味、閉じて分離した感じが残る。
そして私自身の幸福からの分離、尊厳を失ったという意識も残る。

最近は、正面衝突を避けるために、自分のエネルギーを方向転換できることもある。
またあるときは、ロシアの神秘家ゲオルギー・グルジェフの方法を思い起こす――。

反応を表現するま で24時間待つというものだ。このテクニックは必ず成功する。

それは決して、私自身の気分を楽にする方法ではない。
なぜなら、相手に自分の感情を投げつけないので、私の中に残って、ちくちくと刺す。

ただこの刺すような痛みを見つめ続けるときもあれば、話を聞いてくれる友達を見つけて、自分の感じていることを話す必要があるときもある。

共感してくれる人に話を聞いてもらうことで、重荷を下ろし、問題の核心と、なぜ私がそう反応したかについてより意識的になる。

少しずつ憤りは消え、よりはっきりした光の中で状況を見ることができる。
そうして鬱積した感情を解放したあとには、苦い味は残らない。

24時間後、もし必要と感じれば、怒りの引き金を引いた人のもとへ行き、より冷静にその人と話すことができる。

以前、私が怒りを表すことの根拠のひとつは、「あるがままに生きている」ということだった。

私はそれに美徳のラベルを貼っていた。
近頃は、このあるがままとは、たいてい単なる無意識の衝動にすぎないのではないかと感じている。

おそらく常に全面的に覚醒している者、光明を得ている者のみが、真の意味においてあるがままでいられるのだろう。

和尚との至高の瞬間