理解の欲求

 どのような質問をするかで、その人の人生が決まると言われています。

 自分の中に問いを持ったとき、脳はその問いに答えようとして、意識的、無意識的にその答えを探し求め、そのために必要な状況を引き寄せるように思われます。

 引き寄せの法則などと言われますが、それはある意味当然のことで、自分の求める答えを得たいと強く願えば、そのための行動をとりますし、そのためのアンテナもたつわけで、それに関連したことが自然に目に飛び込んできますし、存在は不思議なやり方でそれに協力してくれたりもするようです。

 それは小さな問いから大きな問いまで、小さな願いから大きな願いまでに当てはまることなので、どうせなら大きな問い、大きな願いを持った方が、人生も面白くなるのではないかと思います。

 小さな問いであれば、疑問に思ったことを調べようとすれば、それに関連する記事が目につくようになりますし、本屋に行ったら、まさにその問いに答えてくれる本に出会ったりもします。

 あるいは人生についての深い問い、自分は誰かとか、どこから来てどこに行くのかとか、あるいは人生についての真理を知った人、仏陀に会いたいという願いを持ったことでOSHOに出会って、人生が変わってしまったり、ということも起こるわけです。

 ですから、どのような質問をするか、どのような願いを人生で持つかで、その質問や願いにふさわしい人生を自分のまわりに引き寄せているのだと思います。

 ただ、人は自分の問いや願いに対しても無意識的な場合が多く、通常80%は無意識に支配されているそうですから、自分の人生も無意識に生きてしまっている場合が多くなってしまいます。

 OSHOのようなマスターは、その人の深い問いに光を当て、無意識的な部分に光をもたらしてくれます。

 OSHOの講話を聴くことで、自分の中にあった問いへの答があからされ、自分でも気づかなかった無意識的な欲求などにも光が当てられることなどもよくあります。

 マニーシャの理解への欲求、そこから生まれてきた問いとOSHOの答えは、その問うことの意味を明らかにしてくれます。

 マニーシャは語ります。

 「講話の時間に質問をすればするほど、私の中の切迫した新たな欲求ーー理解したいという欲求に気づく。

 おそらく、毎日私の中の質問を掘り出すことで、ずっとそこにありながら気づかなかったその欲求に、より意識的になったのだろう。

 OSHOは、もともと非常に活動的な私のマインドを最大限に剌激し、私が目覚めている時間のほとんどはマインドを働かせようとしている。

 質問しても、究極の答えーーそれ以上の質問を不可能にしてしまう答えーーはもたらされないのを私は知っている。

 しかしいまの私は、理解しなければという思いに、ほとんど取りつかれているような感じだ。
 
 OSHOや生や、自分のしていることに疑いを抱いているわけではない。質問は、生の一部となりたい、私を取り巻く生に参加したいという願いからやって来る。

 生との対話や、それに属するだけにとどまらず、その内側に入り込み、生が私の内側に入るのを許し、ひとっになるのを望んでいる。

 「でもなぜ?」「……かしら?」「もしも……ならどう思う?」と際限なく出て来る質問に、まるで子どもになったように感じる。

 そして和尚が何度も、あらゆる質問は馬鹿げている、と言ったのを覚えている。質問が不毛な行為と知りつつも、理解したいという強い衝動は抑えられない。

 いまの私に常に付きまとうこの何かは、いったい何だろう? 執拗に、断固として私を打ち続けるこの「何か」は、私をまるでひとつの大きな疑問符であるかのように感じさせる。

 ある晩、和尚に単刀直入に尋ねた。

 「理解したいという衝動とは何なのでしょうか?

 理解への欲求は生の神秘に反しないどころか、それなくしては神秘も音楽も詩もありえない、と彼は説明する。

 「マニーシヤ、理解したいという強い欲求は、あなたの本性そのものから来ている。

 存在の神秘は、あなたが生に参加することを望んでいる。存在の神秘は、あなたが部外者になるのを望まない。

 それはあなたが寺院の中に入って来るのを望んでいる。外は暑すぎるが、内側は完璧に涼しい。

 「理解への欲求は、まさしく知性の一部だ。知性は自分の内側に誰がいるのか、自分の愛と涙と笑いがどこからやって来るのかを知りたがる。人は自分の住む家について、無知でいるのを望まない
  
 「理解への欲求は、人間にとって唯一の希望だ

 「もし、理解したいという欲求がなければ、いかなる神秘も存在せず、詩も音楽も踊りも存在しないだろう。

 そこにあるのは、深い悲しみ、自滅的な悲しみだけだろう。生の意味である理解への欲求なくして、生き続けることにどんな意味があるというのだ。

 しかし幸いにも、その欲求は誰かほかの人から学ぶものではなく、あなたの内側にある。

 あなたは好きなだけそれを抑圧できるが、その季節、その時期、その瞬間がやって来て、あなたが真実を知る人に出会ったなら、突然その欲求は表れる

 「この欲求があなたを弟子にする。そして弟子は導師の始まりにすぎない。弟子は種であり、導師はその花だ

 OSHOは、私たちの内なる成長は、小さな植物のそれに似ていると言う。もしもあなたがその植物がどうなるかを調べるために突ついたり、探ったり、根っこを引き拔いたりしたら、その成長を妨げてしまう。

 あること、ある種のプロセスは、暗闇の中でのみ起こりえる。

 だから私は経験したり、自分について観察したすべてを言葉にすることが正しいのか、疑問に思うときもある。

 私は、自分の内側のとても繊細なスペースに、無理矢理押し入っているのではないだろうか? 

 その繊細なスペースは、ちょうどか弱い小さなスミレの花のようなもので、それを理解しようとし続けたら、それは弱り始め、最後には完全に枯れてしまうかもしれない。

 どうしたら、神秘的なもの、不可知なものの領域を自分が侵しているとわかるだろう?

 私はそれをすでにしているのだろうか?大きくて鈍重な牛のように、神聖なる地を踏みつけているのだろうか?

 そんな思いで、理解への欲求についての質問をしてから少したったある晩、私は講話でOSHOにこう尋ねた。

理解への欲求は、生の神秘を冒涜しうるでしょうか?

 「生の神秘の冒涜はありえない。それは神秘の解明はありえないというシンプルな理由からだ」とOSHOは答え、こう続ける。

 「だからあなたは、気が済むまで頭の中で曲芸をするがいい。いわゆるマインドフアツキングというものだ。……だが、神秘は変わりようがない

和尚との至高の瞬間

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