1986年7月。Oshoはワールドツアーから再びインドに戻ってきました。
ちょうど30年前の出来事です。
このワールドツアーについては、シュンニョの「Oshoとのダイヤモンドの日々」に詳しく書かれています。
ここに書かれているニーラムはインド人の弟子で、これから1990年までの第2期のプーナでOshoの個人秘書を勤めていたひとです。
Oshoはこのワールドツアーの間に体がやせ衰え、原因不明の不調を訴えることが多くなっていました。
アメリカで盛られたタリウムの毒の影響であったことは、その後の検査で明らかになっていきます。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「Oshoワールドツアーからボンベイに戻る」です。
ジョティは語ります。
「 1986年7月21日の朝、Oshoがボンベイに戻ってきました。
スワミ・スラジ・プラカッシュがジュフ・ビーチの近くで「スミラ」という名の素敵なバンガローを経営しています。
その3階全体が、他の場所が用意されるまでの間、Oshoにゲストとして滞在してもらうために明け渡されました。
Oshoの到着のニュースは、Oshoの身の安全を考慮して8人から10人ほどのサニヤシンだけにしか知らされていません。
そのうちの4人がOshoを迎え入れるためにボンベイ空港に行き、他の4人はスミラに残りました。
ずいぶんと長く待った後、Oshoを乗せた車が10時30分ごろにスミラに到着しました。
Oshoは車の後部座席でニーラムと一緒に座っています。私は全身で喜びを感じながら車のドアを開けて、Oshoをインドに迎え入れました。
そしてドアを開けた後、手を合わせて横に下がって立ちました。Oshoはゆっくりと静かに車から降りてきて、私の手の甲を軽く叩いて「ハロー、ジョティ」と言いました。
Oshoがとてももろく見えます。何も言えずにじっとOshoを見つめました。
Oshoが身体の向きを変えてバンガローに向かって歩き出しました。どういうわけか報道機関が駆けつけていてカメラのシャッターを押し始めました。
私はOshoの後を歩きました。そして、Oshoの身体がいかに痩せ衰えてしまったのかを知りました。」
今日はここまでにします。
えたに