Oshoの言葉
坐禅
坐禅は深いところで何もしないでいることだーー
外に向かって何かをするのではなく
内側に向かって何かをするのでもない
それは瞑想でさえない
なぜならあなたが瞑想する時には
あなたは何らかの努力をしている
あなたは何かをしようとしている:
マントラを唱えたり、
神を思い出したり、
あるいは自分自身さえも思い出そうとしている
しかしこうした努力は波紋を作り出す
こうした努力は波動を作り出す
そして坐ることが純真ではなくなる
坐禅とは、坐ることだ
ただ坐ることだ
それ以外の何ものでもない。
Osho
只管打坐
> それは瞑想でさえない
というのはすごいなと思いました。
> 内側に向かって何かをするのでもない
というのですから。
無心(ノーマインド)というのは
こういうことなのでしょうね。
Oshoのある写真を見た時に、
ほんとにそこには誰もいない!
と思って驚いたことがあります。
「マスターズタッチ」や
「あなたの内なる男と女」の
著者でもあるサガプリヤがあるとき、
Oshoのことを話してくれたことがありましたが、
そのとき、
講話の時には、
あれほどカリスマのある人が
そこには誰もいない、
という感じがして驚いた
ということを言っていましたが、
そのことはよくわかります。
そのOshoが言うのだから、
坐禅って、ほんとに無になることなんだな、
っていうことがわかります。
しかし、どうしてそのように坐ることができるかというと
その坐ることのなかに喜びが、
存在とともにいることの至福があるからなんですよね。
今日はここまでにします。
えたに