月には神秘の魔力があるようです。
セドナなどに行くと、コヨーテの遠吠えを耳にしますが、そのコヨーテが満月に向かって吠えている絵葉書などを売っています。
実際、狼などは満月に向かって吠えたくなるようです。
狼少年の物語でも、月を見ると変身したりしますし。
ルナ(Luna、ルーナ) とは、ローマ神話の月の神「ルーナ」のことです。 それより転じて「月」そのものを意味していたりします。
ギリシャ神話では セレネは月の女神で Hyperion の子で、ローマ神話の Luna に当たります。
月を意味するラテン語は’luna’で’lu-ne’に由来しています。
イタリア語やスペイン語などのロマンス語では、そのまま「月」を意味し、同じロマンス語のフランス語では’lune’。
‘Lu-ne’は古典ギリシャ語では’Selene’ですが、それから派生した’seleniakos’という言葉には、既に「狂人」と言う意味を持っていたようです。
英語の’lunacy’、’lunatic’は「狂人」、「精神異常の」という意味になってます。
このように、月には何か人間の精神の奥深いものと関連し、狂気とも関連しているというのが面白いです。
しかし一方、満月の日には悟りを得る人が多いとも言われています。
Oshoのもとの名前はシュリ・ラジニーシといいますが、満月の帝王、という意味があるそうです。
そして「月見の像」で有名な道元も、月を愛した人だったのでしょう。
今回のジョティのお話は、そんな満月の日に起こった出来事が書かれています。
「瞑想キャンプの最後の夜は満月でした」というのも、単なる偶然ではなく、そういう悟りに導きやすい、瞑想にもってこいの満月の日をOshoは選んだのでしょう。
そしてOshoは瞑想キャンプの参加者みんなを、その満月を見る旅に誘ったのでしょう。
Oshoはある講話の中で、満月の夜に、大理石の崖で囲まれた川を船でゆくときの素晴らしさを語っていましたが、ここはその場所なんだろうか? ってふと思いました。
Oshoを見ていて、すばらしいと思うのは、
「OshoがOshoの人びとに規律を
与えるようなことは決してありません。
Oshoの臨在があるだけで
調和が創り出されるのです。」
というところです。
Oshoの「臨在」がもたらすもの。
それは仏陀にもやはり同じ「臨在」があったのだろうと思われます。
私はあるとき「仏陀に会いたい」という思いを持っていたときにOshoに出会いました。
そしてそのOshoの臨在に触れたとき、「あぁ、仏陀に会えたんだ」と思ったのでした。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」
お楽しみください。
ジョティは語ります。
「 アブー山で開かれた瞑想キャンプの最後の夜は満月でした。
その日の午後、友人たちに夜のボート遊びに出かけることを話しました。
すると皆の間でそのことをOshoに話そうというアイデアが出ました。
これを問いたOshoは「ボートは全て借り切ってしまいなさい。夜の瞑想が終わったら、全員がボート乗りに出かけることができる」と言いました。
瞑想キャンプの参加者たちは、ボート乗りの知らせを聞いて心を弾ませました。
全てのボートを借り切って、夜の瞑想が終了すると、誰もがピクニックに出かけた子どものように湖めがけて走っていきました。
Oshoが到着したときには、すでに五百人ほどが庭で待っていました。
その様子は非常に混沌としていました。
ところが驚いたことに、三分もしないうちにふたてに分かれて、Oshoに通ってもらうための通り道を作ってしまったのです。
OshoがOshoの人びとに規律を与えるようなことは決してありません。
Oshoの臨在があるだけで調和が創り出されるのです。
Oshoの人びとは、自らの理解からOshoを愛し敬うのです。
Oshoが両手を合わせながら湖の方へと歩いていきました。
Oshoのボートには二、三人の友人たちが乗り込みました。
他の参加者たちもそれぞれのボートに乗り込みました。
壮大なセレブレーションが湖上で行われているように感じられます。
どのボートも歌って踊るサニヤシンで溢れています。
私は夜空に浮かぶ満月を仰ぎ見て、月の神様も降りてきて一緒にお祝いをしたがっているのではないかしらと空想を描いていました。」
今日はここまでにします。
えたに