Oshoは彼の最後の講話のなかで爆弾宣言をします。
輪廻転生はない、というのです。
これまでOSHOは輪廻転生のことを語り、彼自らの過去世の話までもしていたのです。
とはいえ、彼の講話でのこうした矛盾は日常茶飯事のことです。
彼は論理的に首尾一貫した哲学を説いているのではなく、人々の真理の探究に助けになる話をしているからです。
それはまさにお釈迦さまと同じで、対機説法として理解すすることができます。
対機説法であれば、それを語りかける人によっては、輪廻転生があると言った方が助けになる場合もあれば、輪廻転生はないと言った方が助けになる場合もあるだろうと考えれば、つじつまは合います。
それは禅でも「仏性はあるのか?」という公案があります。
お釈迦さまは、ある人には仏性はあると答え、ある人には仏性はないと答えた。「いったい、どちらが本当なのか?」という公案になるのと同じです。
一説によると、お釈迦さまは「仏性はある」と信じている人には「仏性はない」と答え、「仏性はない」と信じている人には「仏性はある」と答えたとされています。
それは信じるかどうかの問題ではなく、自分で探求すべき問題だからでしょう。
その真理は自分が体得することしかできず、人から教えてもらうことができない問題だからです。
この輪廻転生の話も同じように思われます。
輪廻転生というのは、実際に死んで転生してみないことにはわかりません。
あるいは、Oshoのように、それを超える意識を得たもののみが知ることができるのでしょう。
とはいえ、輪廻転生や過去世に関しては多くの書物があります。
それらの本「前世を記憶する子どもたち」や「前世を覚えている子どもたち」というのを読むと、あたかも、前世はあるかのように思われます。
また精神科医の人たちが、退行催眠の中で、クライアントがあの世のことを話したり、過去世のことを話し、そのことによって治癒されていることを見ると、その過去世の存在は明らかなようにも思われます。
「前世療法」や「人生は何のためにあるのか?」などは、そういうことが書かれてあります。
お釈迦さまは輪廻転生については「無記」つまり何も話されませんでした。
しかし「自己はない」というふうに話されているので、輪廻転生する自己もないことになり、輪廻転生はありえないことになります。
しかし、今回OSHOが話しているように「記憶」が断片的に引き継がれることがある、というふうに考えれば、すべてのことのつじつまが合うように思われます。
シュンニョは語ります。
「1月になって、OSHOはふたたび講話をするようになりました。
講話はときには4時間にもわたりま した。それはかつてなかったことです。
私はやっと今になって、OSHOがろうそくの炎について話したことを思いだしました。
「燃え尽きるまであと2、3秒となったろうそくは、消える寸前の最後の瞬間に、突然その全力をふりしぼって燃えあがる」
そういう長時間の講話が続いたあと、彼は数週間にわたりふたたび病気になり、そして2月になると、また私たちの前に戻ってきて講話をするようになりました。
そのころ、私がOshoに送った質問は、私が彼にした最後の質問になりました。
質問には名前を書きませんでした。これは初めてのことでしたが、そのころの私たちは無記名で質問を送ることになっていたのです。
私の質問は輪廻についてではなかったのですが、Oshoは次のように答えました。
「……東洋の全宗教に見られる輪廻という考えは、
『自己』は、ひとつの肉体からつぎの肉体へ、
ひとつの生からつぎの生へと存続するというものだ。
こうした考えは、
ユダヤ教を源泉とするどの宗教にも見られない。
たとえば、キリスト教やイスラム教には見られない。
現在では、精神科医でさえ、
人が過去生を思いだすというのは、
ほんとうにありうることだと認めるようになっている。
輪廻という考えは、
その信憑性を高めつつある。
だが、私はあなた方に言っておきたい。
輪廻という考えは、まるごと誤解にもとづいている。
人が死ぬとき、
その人の存在は 『全体』の一部になるというのはほんとうだ。
その人が罪人だったか聖者だったかは問題ではない。
しかし、人には
マインドと呼ばれるものもある。
つまり記憶だ。
過去においては、
記憶を思考の束ないし思考の波として、
解釈するに足るだけの情報がそろっていなかった。
だが、それは今ではもっと簡単だ。
そして、この問題に関して、
私にはゴータマ • ブッダが多くの点で、
彼の時代にはるかに先んじていたことがわかる。
彼は私の解釈に同意するだろう唯一の人間だ。
彼は暗示的なことは言ったが、
いかなる証拠も提示できなかった。
口で言えることはなにもなかったのだ。
彼は言った――
人が死ぬと、
その人の記憶が新しい子宮へと向かう。
その人の自己ではない。
現在の私たちにはそれが理解できる。
死ぬときに、
あなたはまわりじゅうに記憶を放出するということだ。
あなたがみじめな生を送ってきたのだったら、
あなたのすべてのみじめさは、
それにふさわしい場所、だれかの記憶システムに入るだろう。
それらがすべて単一の子宮に入るかもしれない。
人が過去生を思いだすというのは、
そうしたことがあるからだ。
それはあなたの過去ではない。
あなたが引き継いだ、だれかのマインドだ。
たいていの人は思いださない。
ひとりの人間の記憶システムをまるごと引き継ぐ人は少ないからだ。
あちこちのものを、断片的に引き継ぐ人は多い。
そうした断片の集まりが、
あなたの 『みじめさのシステム』を形成している。
この地球上で死んだあらゆる人たちは、
みじめさのなかで死んだ。
ほんのわずかな人たちだけが、
よろこびのなかで死んだ。
ほんのわずかの人たちだけが、
無心(ノーマインド)を領解して死んだ。
そういう人たちは足跡を残さない。
記憶という重荷を他人に背負わせることはない。
そういう人たちはただ、宇宙のなかに散っていく。
そういう人たちには、 マインドがない。
記憶システムがない。
すでに、瞑想のなかでそれを溶かしつくしている。
光明を得た人が、
けっして再誕しないのはそのためだ。
ところが、光明を得ていない人たちは、
死ぬたびに、みじめさのあらゆるパターンを放出する。
富が富を呼ぶように、
みじめさはみじめさを呼ぶ。
あなたがみじめにしているなら、
何マイルも向こうのみじめさがあなたに引き寄せられてくる。
あなたはうってつけの媒体だというわけだ。
これはラジオの電波のように、
目でとらえるのはとてもむずかしい現象だ。
ラジオの電波はあなたの周囲をとりまいているのだが、
あなたにはそれが聞こえない。
受信のための適切な装置があれば、
すぐにもそれが聞こえるのだが。
ラジオがなくとも、
電波はあなたのまわりを飛びまわっている。
輪廻というものはない。
それでもみじめさは輪廻する。
無数の人々の痛みがあなたの周囲を飛びまわっていて、
みじめになりたがっている人を捜している。
至福に溢れる人は、足跡を残さない。
目覚めた人は、空に飛び立つ鳥のように死んでゆく。
なんの痕跡も道筋も残さない。
空は空っぽのままだ。
至福はなんの痕跡も残さずに動いてゆく。
あなた方が覚者たちの遺産を相続することがないのはそのためだ。
彼らはただ消えてゆく。
ところが、
ありとあらゆる馬鹿で愚鈍な人たちは、
記憶の輪廻をくりかえし、
それは日々に濃厚になってゆく」
「あなた自身の欲望と願望に対して、
とても意識的になりなさい。
それらはあなたの知らないうちに、
すでに、あなたのとるであろう新しい形態の種を作りつつあるのだから」
“The Zen Manifest”
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)