今回のアメリカ政府のOSHOへの仕打ちは、キリストの十字架刑を思い出させるものでした。
キリストの磔刑(キリストのたっけい)は、ナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、
その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑の死刑である十字架に磔(はりつけ)になって処刑されたとされています。
しかも、その十字架刑は、その残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権保持者は免除されていたところの最も重い刑罰であったということです。(wikipedia)
OSHOのキリスト教への批判は痛烈なものでした。
また当時のアメリカ大統領であったレーガンやローマ法王をジョークのネタとしていたので、キリスト教原理主義者たちにとってOSHOは、許せない人物とされていたでしょう。
そのOSHOを、アメリカ政府が司法制度を使って暗殺を試みたのは、ユダヤ教体制を批判したキリストを磔にして処刑したことと重なって見えます。
この一連の出来事をひと言で言うとすれば、「OSHOがアメリカの十字架に磔にされた事件」と言うことができるのではないかと思われます。
OSHOの有罪の証拠をつかめなかったアメリカ政府は、OSHOの弁護士に、司法取引に応じなければ、OSHOの命は保証できないとの脅しをかけて、有罪とするための司法取引を強要したのでした。
執行猶予付きの実刑判決を言い渡される際に、5年間の保護観察期間も設定されることになりました。
それはOSHOがアメリカ合衆国を退去し、それから5年間は合衆国法務長官の許可なしには再入国しないことに同意するという条件付きでした。
シュンニョは書いています。
「これから5年間はアメリカに再入国できないことを理解したかという裁判官からの質問に、OSHOは次のように答えました。
『もちろんだ。だが入国制限を5年に限る必要はない。この国には二度と足を踏み入れないつもりだ』
『心変わりすることもある』と裁判官は言いましたが、OSHOは黙って微笑むだけです。
のちに私は、どうしてあのときなにも答えず、ただほほえんでいたのですかと尋ねました。
OSHOはこう答えました。
「提督ピラトから『真実はなんですか』と尋ねられたキリストが無言だったのと同じ理由で、私もなにも答えずほほえんでいた。
あのあわれな男には、私には変わるようなマインドなどないことがわからないのだから」
OSHOの判決の日、裁判所に向かう様子は、まるで大統領のパレードさながらの警備と演出がなされました。OSHOの判決は、アメリカ政府にとって、それほどの国家的な大事件であったのです。
それはさながら、キリストが十字架を背負ってローマの町のなかを歩いたときの様子と重なりますが、OSHOの場合はロールスロイスに乗ってのことでした。
シュンニョは書いています。
「11月なかばの夕方です。
私たちの車は、雨にぬれたポートランドの通りを進んでいました。
あたりは暗くなってきています。
大統領のパレードにつくような警察隊が、OSHOのロールスロイスの左右をかためていました。
大きなハーレッドダビッドソンのオートバイに乗った、少なくとも50人の警官がいました。
つやのある黒服を着てヘルメットとゴーグルで顔を覆った警察官たちは、まるで巨人のようでした。
どの交差点にも非常線が張られています。
車の両側に二台ずつついたオートバイは、演出効果を計算しつくした軽やかな動作で、広報で二台ずつ控えていたオートバイと入れ替わっていきました。
まるでスタントマンのように車の前後を移動しています。
サイレンの響きをファンファーレにして、巨大なボディガードたちの囲むなか、OSHOは車から降りました。
いつものように「外側」の騒ぎにはまるで影響されていません。
六人から八人ぐらいの私服警官に付き添われ、落ちついた足取りで法廷に入っていきました。
私は車の反対側の扉から外に出ました。
まわりはごったがえしています。
押しあいへしあいしている人たち人たち、新聞社やテレビ局の人たちでいっぱいでした。
OSHOについて同じ扉から入廷するのを許されなかった私は一瞬立ち止まり、裁判所の廊下を埋め尽くしている灰色や黒のスーツを着た人たちのなかにOSHOが消えていくのを見ていました。
そのあと私は群衆をかき分け別の入り口を見つけました。
かなり悪戦苦闘したあとで、法廷のOSHOの隣に座れました。
OSHOはくつろいで穏やかに座っています。
舞台のそでからドラマを見物しています。
のちにOSHOはつぎのように語りました。
「政府は私の弁護士に脅しをかけた。
政府の側から取引をもちかけるというのは、ふつうでは絶対に考えられないことだが、
私の公判の始まる前、彼らは取引を目的にして私の弁護士たちを呼び出し、
あれやこれやの方法で、彼らの意図をほのめかした。
彼らはこういうことをはっきりさせた。
『われわれにはなんの証拠も証言もない。それは君たちも知ってのとおりだ。
だからこのまま裁判を続けるなら君たちが勝つ。
だが、わかってほしいのは、政府はたったひとりの人間を相手に負けたくはないということだ。
個人を訴訟で勝たせるわけにはいかない。裁判は20年だろうと引き延ばせる。
そのあいだOSHOは刑務所に入ったままだ。
そしてOSHOの命はずっと危険にさらされることになる──これははっきりわきまえておくといい』
弁護士たちとミーティングを終えて戻ってきたニーレンは泣いていた。
彼はこう言った。
『私たちにはなにもできません。無力です。恥ずかしいのですが、あなたに有罪を認めるようにお願いしなければなりません。あなたは有罪ではないのですが、それでも有罪を認めてほしいのです。
政府側のほのめかしたことから判断すると、そうしないとあきらかにあなたの命が危ないからです』
私がふたつの軽微な犯罪について有罪を認めるなら、私は釈放されて、国外追放になるだけだという。
私にはそのまま拘置所にいる覚悟も、獄中で死ぬ覚悟もあった。なんの問題もない。
それでもニーレンが『あなたを愛する人たちのことを考えてください』と言いだしてから、私はそれは深刻に考えるほどの問題ではないと思うようになった」
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法廷で座るOSHOは、彼が自室で座っているときや、ブッダホールで座って私たちと瞑想しているときと同じでした。
人格が消え、古い思考パターンから自由になった人のなかには、混乱したり動揺したりするエゴも「私」もないのでしょう。
レヴィー裁判官がOSHOに尋ねました。
“Do you plead guilty or not?”「被告は有罪を認めるか?」
“I am” 「私は在る」OSHOは答えました。
そばにいたOSHOの弁護士、、ジャック•ランサムが椅子から立ち”Guilty”「有罪です」と言いました。
同じ答弁はもう一度繰りかえされました。
あとから、この起訴認否答弁での彼の答えかたについて質問した私に、OSHOは笑ってこう言いました。
「だって私は有罪ではないんだ! 私はただ”I am” (私は在る)と答えたにすぎない。
私たちの弁護士はあわてて”Guilty”(有罪です)と叫んだ。
彼が有罪なのかもしれないが、それは彼の問題だ」
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OSHOはふつうなら25ドルの罰金ですむような二つの軽犯罪のために50万ドルの罰金と国外退去を命ぜられました。
ハシヤは友人たちの協力を得て、10分もたたないうちに罰金の支払いをすませました。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)