OSHOとともにあること

 本を読んで素晴らしいと思ったときには、その人に会いに行くということをよくしていました。

 本の情報と実際にその人に会うというのとでは、情報量が全然違うからです。情報量というのは知識の量ではなく、その人の雰囲気というか、オーラというか、その人の生き方というか。

 その人に会えないときは、その人が書いた本を手に入る限り全部読むとか、その人に関連する情報を手に入れるとかをします。というのは本を読むということは、その人に出会うようなものだからです。

 ですから、OSHOの本を読んで、この人だと思ったときにOSHOに会いに行ったのは、そういう流れでした。

 OSHOの講話を聞いたり本を読むことで得られることは膨大なものがあり、そのことからだけでも得るものは甚大です。

 しかしまた、実際にOSHOとともにいいて、OSHOが実際に話している場に接する機会があるというのはまた別のことですし、かつまた彼の作り出したコミューンを体験するということもまた別の体験をもたらします。

 OSHOの話で聞いたところによると、ブッダフィールドというのがあって、悟った人のまわりにはその覚醒のフィールドというのができるのだそうです。

 たとえば、カリスマのある人などが部屋に入ってくると雰囲気が変わったりしますね。別にカリスマがなくても、陰気な人でも、元気のない人でも、あるいは元気いっぱいの人でも、その人の周りにはある雰囲気のようなものがあって、その人のまわりに影響を及ぼします。

 悟りを得た仏陀ともなると、そのエネルギーが影響を及ぼす範囲も大きくなるのです。

 OSHOというのは明らかにそういう覚醒を得たエネルギーを放ち、まわりの人たちにその影響を及ぼす人でした。

 OSHOの講話のなかでよく耳にする言葉として、私は言葉を伝えているのではなく、沈黙を伝えている、という意味のことを聞きますが、彼とともにいることは、まさにそういう言葉ではない何かを感じることでもあります。

 と同時にまた、彼から聞く言葉として、「私はいない。私はあなたを映しだす鏡にしか過ぎない」という意味の言葉も耳にします。

 OSHOを見ていると、なんて美しい人なんだろう、と思います。しかしそれは私ではなく、それを見ているあなたを映し出しているだけなんだ、ということなのです。

 そういうことを聞いても、「そんなはずはない」と思うわけですが、OSHOから見れば「みんなのなかにブッダを見ている」ということになるのです。

 そしてまた、OSHOとともにいることは、観照することや瞑想することがごく自然なものにも感じられるのです。

 マニーシャはそのOSHOとともにいることの経験を次のように語っています。

 「講話中、OSHOの臨在のもとで、私はより真っ直ぐに座り、終わったあとはより優雅に歩いて帰る自分に気づく。

 絶えず輝くような美しさを放つ人の近くにいるだけで、私は彼の内なる光の何かを捕らえる。ある種の誇り――それは個人的なエゴとは何の関係もない――を感じる。

 彼の存在を鏡として自分を見れば、私自身の美がそこに映るのが見える。OSHOの存在のもとで、私は王女のように感じる。

私は、自分がどうなることができるかを体験しているのだ。講話に耳を傾けている間、静止と沈黙のうちに座れるようになったが、ほかにも課題が毎日の生活の中にある。

OSHOの臨在の許で自分の行動、感覚、思考を観照するのはごく簡単だが、彼から離れると、より多くの気づきが必要となる。」

和尚との至高の瞬間

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