生を素晴らしいものと愚かなものに分割しないこと

生において
もっとも難しく、もっとも基本的なことがひとつある
それは、生を素晴らしいものと愚かなものに分割しないこと──
まったく分割しないことだ

それらはすべてひとつの全体の一部だ
それには多少ユーモアのセンスが必要だ

そして私にとってユーモアのセンスは
人が全一になるために、どうしても必要なものだ

取るに足りないもの、愚かしいもののどこが悪い?
なぜ、それらを笑い楽しむことができない?

あなたはこれは正しい、これは間違っていると言って
四六時中評価を続ける
つねに判事の席に座っている──
それによってあなたは、深刻になってしまう

花は美しいが、刺はどうだろう ?
刺も花という存在の一部だ

花は刺なしには存在しない
刺は花を守っている
刺にはそれなりの機能と目的と意味がある

ところが、あなたは分割する
そして花は美しく、刺は醜くなる

だが樹そのもののなかでは
花にゆく樹液も刺にゆく樹液も同じだ

樹という存在においては分割も評価もない
樹は花を好んでいるわけでもなく
刺を大目にみているわけでもない
ふたつとも完全に受け容れられている

そしてそれは私たち自身の生に対する
アプローチであるべきだ

評価をすれば
ちっぽけで、馬鹿げていて
愚かに見えるものがある

だが、その原因はあなたの評価にある
評価をしなければ
それらも本質的な何かを満たしている

ゴールド・ナゲッツ

生を素晴らしいものと愚かなものに分割しないこと

というのはとてもおかしなことを言っている、というふうに思いませんか?

だって、世の中すべてのことは、素晴らしいものと愚かなものに分けて、素晴らしいものを評価し、賞を授け、愚かなものには批判を加えて罰することによって成り立っているからです。

もし素晴らしいものと愚かなものに分割しなければ、何をやってもいいことになってしまいそうです。

いいものも悪いものもごっちゃになってしまい、人の進歩もなくなるし、社会のシステムが成り立たなくなってしまうように思ってしまいます。

いいものと悪いものを区別するから、人はもっと良くなろうと思うのだし、悪いものは避けようと努力します。

愚かにならないように勉強し、知恵をつけ、素晴らしくなろうとします。

それなのに、どうしてOSHOは素晴らしいものと愚かなものに分割するなというのでしょう?

取るに足りないもの、愚かしいもののどこが悪い?
なぜ、それらを笑い楽しむことができない?

なんて言われると、この人はいったい何を言っているのだろう?

取るに足りないものや愚かしいものを排除すべきなのは決まりきったことじゃないか、

って思ってしまいます。

でも、考えてみてください。

確かに、ピエロや道化師というのは、まさにこのことをやっています。

愚かなことを見せて、人々の笑いをとっています。

その愚かさを笑い、楽しむようにと人々にしむけています。

人々は道化師を見て笑います。

人のことなら笑えます。

でも自分のことになるととたんに笑えなくなって、深刻になってしまいます。

ユーモアというのは、そういう自分の愚かさを笑えることです。

私にとって
深刻さはひとつの病気だ
そしてユーモアのセンスは
あなたをさらに人間らしく謙虚にする

私から見れば
ユーモアのセンスは
宗教性のもっとも基本的な要素のひとつだ

とOSHOは言います。

ユーモアのセンスがあれば、自分を客観視することができるので、自分の愚かさも笑えるようになるのです。

西洋では宮廷の道化師が雇われていました。

道化師は王様にさえも進言することが認められていた知恵者のことだと言われています。

タロットカードにはフール(愚者)というカードがあります。

それがトランプではジョーカーになったとされています。

ジョーカーはすべてのカードに成ることができます。

つまりそれはすべて(全一)になりうるのです。

愚かでもあり、知恵者でもある。

あなたはこれは正しい、これは間違っていると言って
四六時中評価を続ける
つねに判事の席に座っている──
それによってあなたは、深刻になってしまう

裁判官は自分が裁かれることがありません。

常に人のことをジャッジし、良い悪いを判断します。

実はこれはマインドの機能を表しています。

ものごとを判断し、区別し、分類し、計測し、評価する。

そのマインドがあることによって科学が進歩してきましたし、そのマインドによって社会が成り立っています。

しかし、分割しつづけることによって失われるものがあります。

それは全体であることです。

全体であることの美しさが失われます。

西洋医学はすべてを分析し、手術によって悪いところを取り除こうとします。

東洋医学は全体であることを重視します。全体のバランスを取り戻すことで癒そうとします。

ものごとはすべてが全体であることによって成り立っています。

その全体の中のひとつが失われてもバランスが崩れてしまいます。

自然の様子を見ているとそのことがよく分かります。

いかに全体が微妙なものごともバランスの中に成り立っているかは、神秘と言えるほどです。

自然の中に存在するすべて、植物、動物も含めてすべてが、食べられるものも食べるものも、花もミツバチも、すべてがつながって、全体を形成しています。

しかし、そのひとつの害虫(だと思っているもの)を取り除いても、すべてに影響します。

例えば、DDTをはじめとする化学物質のが人間にとっての害虫や雑草を取り除こうとしたことが、いかに深刻なダメージを地球の生物、ひいては人間にもたらすのかを描いた作品、レイチェル・カールソンが書いた「沈黙の春」にはその例がリアルに描かれてあります。

人間のマインドにとって素晴らしいものと愚かなものに分割する西洋の科学の発達によってもたらされた結果が、現在の環境破壊です。

すべてを科学的に分析し、人間に取って都合の良いものを評価し判断してきた結果が、現在私たちが直面している環境問題であり、環境変化の一因でもあります。

つまり、マインドだけで突き進んでも、全体であることを忘れてしまうと、それはどこかで破綻するということです。

それは外側のことだけではなく、内側のことについても同様です。

そしてそれは私たち自身の生に対する
アプローチであるべきだ

評価をすれば
ちっぽけで、馬鹿げていて
愚かに見えるものがある

だが、その原因はあなたの評価にある
評価をしなければ
それらも本質的な何かを満たしている

OSHOはこのことで、何を言いたいのでしょうか?

それは次の言葉に集約されています。

マインドのすべての機能は
分割しつづけることだ

ハートの機能は結び目を見いだすことだ
それについてマインドはまったく盲日だ
マインドはことばを超えているものが理解できない

言語的に、論理的に
正しいことしか
理解できない

マインドは
存在、生、現実(リアリティ)には
関知しない
それ自体が想像の産物だ

マインドなしに
生きることはできる

ハートなしに
生きることはできない

そして深く生きれば生きるほど
あなたのハートが関わるようになる

ハートによって生きること。

マインドだけではなく、ハートが関わることが大切です。

そのための瞑想がハート瞑想なのです。

ここでOSHOが「ハート」ということで言わんとしていることは、評価せず、全体をあるがままに受け入れ、統合するということです。

ハートが関わることは次の図によって示すことができます。

ishiki_map_heart

この図は、ハートが関わることで、意識の多重構造で表されている外側の世界も内なる世界も、よいという判断も悪いという判断も、それらのすべてがそこに受容され、本来の自分自身を生きていくことができるようになることを表しています。

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