人間性と動物的本能

人はいまだに
怒り、憎しみ、嫉妬、所有欲、
悪賢さといった
多くの動物的本能を持っている

人の内面に存在し、非難されてきた
これらのものすべては

非常に根深い無意識に属しているようだ

そしてスピリチュアルな錬金術が
行なっているワークのすべては

いかにしてこの動物的過去から
免れるかということだ

動物的過去から免れないかぎり、
人は分裂したままにとどまる

動物的過去と人間性は、ひとつのもの
として共存できない

人間性はまったく正反対の質だからだ

だから人は偽善者になるほかはない
社交儀礼に関するかぎり
人は人間性の理想に従う
愛、真実、自由、無欲、慈愛―

だが、それはたんに表面的な話であり
いつ隠れた動物が顔を出すか
知れたものではない

どのような偶然でも表面化するのに充分だ
しかも、表面に出るかどうかにかかわらず
内面意識は分裂している

この分裂した意識は
「個人において調和の取れた全体になるには
 どうすればよいか」

という渇望と疑間を生み出してきた

そして社会全体にも同じことが言える
社会を調和の取れた全体にするには
どうすればよいか?

戦争もなく、闘争もなく、階級もなく
肌の色、階級、宗教、国家による分裂もなく――

私たちがいつの日か
社会のすべての分裂を落とすことが
できるとすれば

それが唯一残された道だ
だが、分裂はまず個人のなかで
落とされるべきだ一

それを落とすことは実際に可能だ

ゴールド•ナゲッツ

Oshoは、まさにこのすべての分裂を落とすことのために多くのエネルギーを注いでいます。

そのためにOshoは多くの非難を受けてきたともいえます。
なぜなら、その分裂を落とすためには、その分裂があることを意識する必要があります。
しかしそれらの分裂は深い無意識の中にあり、そのことを人はみな隠しておきたいのです。

これまでの長い歴史にわたって、人はそれらの動物的本能を隠そうとしてきました。
それらは個人においても、社会においてもあってはならないものとされてきたからです。

そのため、それらの怒り、憎しみ、嫉妬、所有欲、悪賢さは非難されてきました。
そして見ないふりをしてきました。

それゆえ、それらは深い無意識のなかへと隠されてしまいました。
しかしそれらを無意識の中へと隠したからといって、それらがなくなるわけではありません。

無意識にある動物的本能と、いわゆる人間性の理想である、愛、真実、自由、無欲、慈愛などとの間には深い分裂の溝があります。

その分裂をなくすためには、まずその分裂に気づき、動物的本能を深い無意識から、意識へともたらす必要があります。

それらの動物的本能に意識的になり、意識の光を当てることによってのみ、それらは癒され、消えていくことが可能になるからです。

そこでOshoはそれらの人間の無意識にあるものを白日の下にさらしてきました。
社会の中にある偽善をあばいたのです。
個人の中にある偽善をあばいたのです。

宗教家の偽善、政治家の偽善をあばきました。
その結果、それらの人たちからの抵抗を受け、非難され、受難を受けることになりました。キリストが十字架に磔にされ、ソクラテスが毒殺されたように。

キリストもソクラテスも、同じことをしようとしたので、当時の権力者から同じような仕打ちを受けることになったのでした。

それはともかく、

私たちがいつの日か
社会のすべての分裂を落とすことが
できるとすれば
それが唯一残された道だ

だが、分裂はまず個人のなかで
落とされるべきだ一ー
それを落とすことは実際に可能だ

それはどのようにして可能になるのでしょうか?

Oshoが教えていた、その唯一の道とは瞑想です。
Oshoはそのために古今東西のあらゆる瞑想を再び現代の世に紹介しました。
その瞑想のことについて語り、解説をしてきました。

そしてOsho自らが、その分裂した現代人にあった新しい瞑想を紹介しています。
ダイナミック瞑想がそれです。
クンダリーに瞑想、ナダブラーマ、ナタラジ、その他の瞑想も開発しています。

長年Oshoから指導を受けてきているリーラ、プラサード、アルヴィナがユニティインスティチュートで紹介している「ハート瞑想」もそのひとつです。

現在はマインドフル瞑想が人気ですが、どんな瞑想であろうと、その瞑想が本物であれば、個人の中の分裂を落とすために役立ってくれるものです。

そういう意味で、ヨーガやマインドフルネスやヴィパサナ、ハート瞑想など、さまざまな瞑想がブームとなって紹介されているのも意味のあることです。