私たちはひとつの存在の一部

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
2015年。

いろいろ諸説がありますが、仏陀の没後約2500年、キリストの没後約2000年、老子の没後約2500年。

彼らの言葉が今も色あせることなく私たちが読み親しんでいるのも、その言葉が不変の真理を含んだものだからでしょう。

真理というものは言葉では言い表すことができないとされていますが、それらが今も伝えられているのは、その人たちが指し示す真理を検証し、体験し、その真理が受け継がれてきているからにほかなりません。

禅では「直指人心 見性成仏」という言葉がありますが、言葉によることなく、ブッダ(覚者)になることによって仏性(真理)を得ることができるということを意味しています。
仏陀やキリスト、老子のような覚者の言葉は月を指す指、真理を指し示すものであって、その真理を体得すれば、仏陀やキリスト、老子と同じ真理の体得者となることができるということでもあります。

Oshoはそのような真理の体得者として、古の覚者の言葉を、現代の人間のマインドに合わせた形でよみがえらせた人です。

というのは仏陀やキリスト、老子の時代と現代ではその時代が異なり、人々のものの見方や考え方もずいぶん変化したところもあるし、誰もがその経典をそのまま読んで理解できるものではなくなっているからです。

それがOshoの言葉が現代に必要とされている理由でもあります。
そしてOshoは、そのためのあらゆる実験をしてきています。

それはともかく、これまで「非暴力」ということについて、仏教や新約聖書などの教えとして、そして最近ではガンジーの非暴力による独立運動が有名ですが、Oshoはその「非暴力」の本質的な理解について、次のように語っています。

私たちはひとつの存在の一部だ
誰を傷つけるとしても
長い目で見れば、
それは自分自身を傷つけていることになる
今日はそれに気づかないとしても
いつの日にか、もっと目覚めたときに

あなたは言う
「なんと言うことだ!
これは私が傷つけた傷ではないかーー
しかも自分自身に対して」

あなたは人は別々の存在だと思って
ほかの人を傷つけていた

誰ひとり別個ではない
この存在全体は宇宙的な統合体だ
この理解から非暴力が生まれる

    「ゴールド・ナゲッツ」 Osho

覚者(目覚めし者)というのはサンスクリットの buddha(仏陀)の意訳で、真理を悟っている者、自ら悟り,他者を悟らせる者という意味があります。

「目覚める」というのは「私たちはひとつの存在の一部」ということに目覚めるということでもあり、そうすれば非暴力は自然に生まれるということをOSHOはここで語っています。

目覚めていないものにとっては、「非暴力」は仏教や聖書などでの戒律や教えとなって現代に伝えられているわけですが、その根本は「私たちはひとつの存在の一部だ」ということにあります。

今ではインターネットによってますます世界はひとつになり、「つながり」ということがキーワードになっています。

それは個人主義が発達した現代において、それぞれが個別となってしまい、家族も分解されて核家族となり、さらに家族さえもばらばらになりつつ現代社会において、ふたたびその本来のつながりを取り戻したいという現代人の自然な心の欲求なのかもしれません。

現代社会の資本主義が行き過ぎて、貧農の差がますます大きくなり、世界で戦争が起こりつづけ、原爆が投下され、差別があるのも、私たちがあまりに個を重視しすぎて、全体であることを忘れてしまっていることから生じています。

思いやり、やさしさ、おもてなし、助け合い、奉仕、愛、慈愛なども、すべてこの「私たちはひとつの存在の一部」という理解が根本にあるとも言えます。

その根本をさらにより深く見ていけば、それはマインドによってこの世界を見ることに偏り、ハートによって、この世界を見ることを忘れてしまっていることにあります。

私たちはあまりにも左脳教育に偏り、マインド(頭)でのみ物事を見て、判断することに慣れてしまっています。

マインド教育だけではなくハートの教育をも意識していくことが必要な時代になってきているように思われます。

2015年は世界がハートの時代に向かっていくためのの一年になればと願っています。