愛されるために

自らの内側に
愛の源泉を見いだした人々は
もはや愛されることを必要としない
だが、彼らはまさに愛される

彼らが人々を愛する理由は簡単だ
ただあり余る愛を持っているからだ
何の見返りも期待せずに

まさに雨雲が雨を降らせたい
と望むように
まさに一輪の花がかぐわしい香りを
放ちたいと望むように
一ー

愛の報酬は愛を得ること
にあるのではなく
愛すること自体にある

愛するだけで報われている人は
大勢の人に愛される
それは生の神秘だ

なぜなら、その人に接することによって
人々は少しずつ自分の内側に
愛の源泉を見つけはじめるからだ

愛を降り注ぎながら
しかも、その愛がどのような必要からも
生じていない人
一ー

彼らは今、少なくともひとりは、
そのような人を知っている
愛を分かち、愛を降り注げば
愛はさらに育ってゆく

ゴールド•ナゲッツ」 by Osho

ここでOshoが語っている 「自らの内側に愛の源泉を見いだした人」 とは一体どのような人なのでしょうか?

そしてここでOshoが語っている

愛を降り注ぎながら
しかも、その愛がどのような必要からも
生じていない人一ー
彼らは今、少なくともひとりは、
そのような人を知っている

という、「そのような人」とは誰なのでしょうか?
仏陀の時代に仏陀と出会った人たちにとっては仏陀が「そのような人」であったでしょう。

キリストの時代にあってキリストに出会った人にとってはキリストが「そのような人」だったでしょう。 歴史に名を刻まれなくても、あなたの身近にも「そのような人」がいるかもしれませんね。

私にとってはOshoが「そのような人」です。
ここでOshoが語っていることは、まさにOsho自身のことです。
彼が自分自身の体験を語っています。

Oshoを見ていると、まさに愛そのものであることが感じられました。

Oshoはまさに雨雲が雨を降らせたいと望むように愛を降り注ぎ、 Oshoからはまさに一輪の花がかぐわしい香りを放ちたいと望むように愛の香りが放たれていました。

その人に接することによって 人々は少しずつ自分の内側に愛の源泉を見つけはじめるからだ そういう人に接する機会を持つということはとても大切なことのように思われます。

昔は職人は師匠に弟子入りすることにより学びましたが、師匠かから何かを学ぶのではなく、丁稚奉公をしながら、師匠と一緒にいることの中から伝承したのです。

師匠の波動の中にいることのなかから、言葉にはできない何かを受け継いだのです。
つまり「その人に接する」ことによって、何かを感じ取り、言葉にはできない何かを受け継ぐことができます。

「自分の内側に愛の源泉」を持った人と接することのなかで、ゆっくりと自分の内側に愛の源泉を見いだし始めるのです。
その愛の源泉は自分の内側に見つけるものなのだということが少しずつわかり始めたのは、Oshoという実例と接する機会があったからでもあります。

そのような人が存在しうるということは、すべての人の中にも同じ可能性があるということです。
ここでOshoが語っていることは、 愛されるためには、愛するだけで報われている人になることだということです。

愛するだけで報われている人になるためには、 もはや愛されることを必要としなくなることです。
そして、もはや愛されることを必要としなくなるのは 自らの内側に愛の源泉を見いだしたときだということです。

今日はここまでにします。

えたに