愛になった人だけが愛することができる

「愛とは何か」を知る瞬間に
あなたは愛の何たるかを体験する一ー
あなたは愛そのものになる

そのときはもはや、あなたの内側に
愛される必要はなくなる
そして愛に溢れていなければならない
という必要もなくなる

愛することが、純朴で自発的な実存―ー
あなたの呼吸そのものになる
ほかにどうすることもできない
ただ愛するだけだ

たとえ見返りに
愛が返って来ないとしても、
傷つくことはない
その理由は簡単だ

愛になった人だけが
愛することができるからだ
人は自分が持っているものしか
与えることができない
ほかの人々に愛して欲しいと頼んでも
一ー
自らの人生に愛を持たない人々
自らの存在の源に到達していない人々
そこに愛の寺院があるのだが……
そのような人々がどうやって
あなたを愛せる?

愛している振りをすることはできる
愛していると言うこともできる
愛していると自分で信じる
ことさえできる だが遅かれ早かれ、
それはたんなる見せかけ
たんなる演技、たんなる偽善だと
わかってしまう

相手はあなたを
蝙すつもりはないのかもしれない
だが何ができる?
あなたは愛を求めている

そして、相手もまた愛を求めている
愛することを前提にして、
初めて愛は与えられるというのは
双方が了解していることだ

だから、ふたりはあらゆる手段を試みる
それはひとつの姿勢だ
だが、その姿勢は空しい
ふたりはその空しさを発見する

そして互いに「これはどこかが間違っている」
と不平を言う
最初から、ふたりは互いに
物乞いをする乞食だった

ふたりとも空っぽの物乞いの鉢を
持っていたにすぎない

ゴールド•ナゲッツ」 by Osho

「愛とは何か」を知る瞬間に あなたは愛の何たるかを体験する一ー

とOshoは語っていますが、では「愛とは何か」をどうやって知るのか? と思った瞬間、すでにあなたは愛することを知ることはできなくなってしまいます。

なぜなら「どうやって?」と聞いた瞬間、あなたはすでに頭で理解しようとしているからです。 頭で愛を理解できません。

そこにOshoの言葉を聴くときのむづかしさがあります。
Oshoの言葉は、頭で理解しようとして聞いた瞬間、Oshoが語っていることのポイントを逃してしまいます。

Oshoの言葉はハートで聞いている人のみが知ることができます。

Oshoはハート トゥ ハート コミュニオン( Heart to Hear communion) と言っています。

ハートとハートの交わり。 ハートでOshoを聴いている人は、Oshoからこの言葉を聞いた瞬間、「愛とは何か」を知り、あなたは愛の何たるかを体験することになります。

なぜなら、ハートでOshoの言葉を聴く人は、Oshoが愛そのもであることを知り、その瞬間Oshoの愛があなたを満たし、あなたも愛そのものになるからです。

しかし、Osho を知ることなく、この言葉を読めば、頭で読むことになるでしょう。
そうすると当然ながら、「愛とは何か」を頭で理解しようとします。

そうすると、あなたは愛を知ることができなくなってしまうというジレンマに陥ってしまいます。
なぜなら頭(マインド)で愛することはできないからです。

愛することができるのはハートです。 ほとんど、私たちはマインドで愛そうとします。

そのとき、
そのような人々がどうやって
あなたを愛せる?

愛している振りをすることはできる
愛していると言うこともできる
愛していると自分で信じる
ことさえできる
だが遅かれ早かれ、
それはたんなる見せかけ
たんなる演技、たんなる偽善だと
わかってしまう

相手はあなたを
蝙すつもりはないのかもしれない
だが何ができる?
あなたは愛を求めている
そして、相手もまた愛を求めている

ということになります。

ハートの愛を知ることができたとき、ここでOshoが語っていることがわかるようになります。

「愛とは何か」を知る瞬間に
あなたは愛の何たるかを体験する一ー
あなたは愛そのものになる

ハートを知ることは、ハート瞑想によって可能になります。

今日はここまでにします。

えたに