人生に求める究極のこと

人は人生に何を求めるのか?
人はなぜ旅に出るのか?
どうしてOshoに魅せられたのか?

私にとっては、ここにOshoが語っていることが理由です。

その私が求めてやまないものを、Oshoが得ていたことがわかったからです。
それを手に入れたかったのです。

それは仏陀が悟りを得たときに得たものと同じです。

いかなる仲介もなく
他者から与えられたマインドの介人もなく
存在を直接感得するとき

あなたは自らを変容し
自らを光明、覚醒に至らせ
自らを意識の最高峰に導く何かを味わう

それよりも大いなる成就はない
それよりも高い充足はない
それよりも深い安らぎはない

あなたはわが家に帰っている
生は喜びに、歌に、ダンスに、
祝祭になる一ー
そして私はこの生を宗教的な生と呼ぶ

ゴールド•ナゲッツ」 by Osho

Oshoとともにいることでわかったことは、その私が求める究極のものは、求めて得られるものではない、ということでした。

なぜなら、それを求めているものはエゴであり、そのエゴの欲望がある限りは、それは手に入らないものだということもわかったからです。

マインドこそがそれが手に入ることの障害になっているのです。
それがわかったとき、まさに混乱と絶望がそこにありました。

Oshoはレットゴー(Let go)ということが大切だと語ります。

全てを手放していくこと。
存在に明け渡すこと。

「放てば手に充てり」という言葉があります。
道元の「正法眼蔵」の弁道話に出てくる言葉です。

手を握っているときは、手は閉じられています。
何かを握りしめているときは、その握っているものに執着しています。
エゴが何かを握りしめようとしているのです。
その手を開いて、すべてを手放したとき、存在が手のひらとともにあります。

我が家にたどり着いたときのようなくつろぎがあります。
全ての存在が、すでに自分とともにあり、その存在に生かされていたんだということがわかります。

「存在を直接感得するとき」がそこにあります。

今日はここまでにします。

えたに