私たちはよく「自分のあるがままでいたい」というふうに思います。
自分のあるがままを生きたいとも思います。
それでは「自分のあるがままを生きる」とは、どういうことでしょう?
それは自分の真実を生きる、ということでもあるでしょう。
つまり、自分に対してウソのない生き方です。
「真善美」という言葉があります。
ものごとの最初には、まず「真」があります。
それでは、その「真実」とは、なんでしょうか?
OSHOは次のように語ります。
「真実」と表示されたものなどない
ある日、あなたはひとつの箱を見つけ
それを開いて、なかを見て言う
「やった! 真実を見つけたぞ!」……
そのような箱はない
つまり、真実は、それをひとたび見つけてしまえば、それでおしまいというものではなく、それを日々生きていくことでしか得られないものだということでしょう。
私たちがこれほど真実を求め、真実について語っているのに、それでもなお真実を得られず、真実を生きていくことが難しいのはなぜでしょう?
この世界は偽りに満ちているから、というのは、よく聞かれることです。
自分の真実を生き、真実を話すと迫害を受け、世間からも排斥されるという恐怖があります。
真実に基づいて生きること、はあまりにも危険なのです。
そのような危険を冒すことはできないので、みんなが偽りのなかに生き、偽りの世界を形成しているのです。
それでいて、自分が真実を生きることができないのは、偽りの世界のせいにするというのは、矛盾に満ちています。
それでは、そんな偽りの世界にあって、真実を語り、その真実を生きれば、どうなるのでしょうか?
真実を生き、真実を語った人は、歴史上どうなったのでしょうか?
仏陀、キリスト、ソクラテス・・・。
仏陀は毒キノコにあたって亡くなったとされていますが、実際は、あまりにインドのカースト制度の社会に反することをしたので、毒キノコで毒殺されたという説があります。(「お釈迦さまの脳科学」)
キリストは磔にされました。
ソクラテスは毒を飲まされて死にました。
そしてOSHOも真実を語り、真実を生きた人ですが、アメリカ政府にタリウムの毒を盛られました。
そう考えると「自分のあるがままを生きる」って、そう簡単ではないですよね。
「自分のあるがままを生きる」って、自分の真実を生きるとともに、自由に生きるということでもありますから、その生き方には責任もともないます。
だったら、やっぱりなにかに隷属し、奴隷の人生を生きていた方がよっぽど楽です。
なにかに隷属して奴隷の人生を生きるのか、それとも自分の真実にしたがって自由に、自分のあるがままを生きるのか。
それは人それぞれの人生の選択です。
OSHOは語ります。
人々が真実について語り
それでも偽りの世界にとどまる理由は明らかだ
彼らのハートには、確かに真実への願望がある
人は自分の姿を目の前にして
自分が真実でないことを恥じている
だから真実について語る
だが、それはただの「おはなし」──だ
真実に基づいて生きることはあまりにも危険だ
そのような危険を冒すことはできない
自由についても同じことが言える
話のうえでは、誰もが自由を望んでいる
だが、実際に自由な人はひとりもいない
そして誰ひとり、真に自由になることを望んでいる人もいない
自由は責任をもたらすからだ
自由はそれだけではやって来ない
また、依存することはたやすい
責任はあなたにではなく
あなたが依存している人にあるからだ
そこで、人々は分裂症的な生き方を作りだした
真実について語り、自由について語る
そして偽りのなかで生き
隷属状態に甘んじる─
あらゆる種類の隷属に─
一つひとつの隷属が、なんらかの責任を回避させるからだ
真に自由を求める者は
途方もない責任を受け容れなければならない
自らの責任をほかの誰に押しつけることもできない
何をするにしても、どうなろうとも自分の責任だ
今日は、自分の真実について考えてみたいと思います。
それではすてきな一日を。
この暑さで熱中症が流行っているようですので、水を飲むのをお忘れなく。
Have a nice day.
追伸:
これを書いている今、広報のスピーカーから、広島原爆で亡くなったみなさんへ、追悼のための黙祷のアナウンスがありました。
しばし、黙祷を捧げます。。。
。。。。
黙祷ありがとうございました。
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