寂しさへの瞑想 その2

「人はどうして淋しいのか?」というテーマでお送りする、

寂しさへの瞑想シリーズ。

Oshoの言葉を見ていきましょう。

寂しさへの瞑想シリーズ その2

Oshoの言葉:

マスター(師)は
バラの花のようなものだ。

あなたが見ることができるなら、
見える。

見ることができなければ、
忘れてしまいなさい。

あなたは決してその意味を
知ることはできないだろう、

なぜなら、その意味は
あなたの目の前にあるのだから。

そこから寓話を作り出さないように。

寓話は、あなたが解釈を始めた
ということであり、

何であれあなたが解釈したものは、
あなたの解釈となる。

聞いた話だが…

ムラ・ナスルディンは、
「ここでは釣りをしてはいけません」
という、
大きな看板のある場所で
釣りをしているところを捕らえられた。

彼を捕まえた警備員は彼に言った、
「ナスルディン、看板が見えないのか?
読めないのか?ーー
ここは釣りは禁止だ」
彼はその看板を指さした。

ムラ・ナスルディンは言った。
「はい、読めますが、納得できません。
ここには釣りをするにはいい場所です。
誰が『ここでは釣りをしてはいけない』
と言ったのですか?

ここはいい釣り場なんです。
今日、私が釣り上げた
この魚を見てください。

この看板を立てた奴は
頭がおかしいんじゃないですか?」

これは、あなたの解釈だ。
これは単純な看板だ
「ここでは釣りをしてはいけません」
意味を見いだすためではなく、
ただそこにある。

           Osho

このOshoの言葉は、
次の質問に答えたものです。

Osho
ある人が禅師に尋ねました、
「この世で最大の奇跡は何ですか?」
禅師は答えました
私は私とひとりここに座っている
寓話の意味は何でしょうか?

そこで、Oshoは言っているわけです。

その禅師の言葉は寓話ではない。
譬え話でもなく、解釈も必要ない。
ただ、その言葉
そのままを受け取りなさい、と。

Oshoは物事を説明するのに、しばしばナスルディンの寓話を喩えにして話すことがよくあります。

いつもとても絶妙な寓話なので、感心します。

「ナスルディン ホジャ物語」というトルコの民話があるのですが、

日本で言えば、「一休とんち話」に近いようなものです。

本当にそこにそんな話が書かれてあるのか、Oshoが作り上げた話なののかわからないぐらいいつも絶妙な譬え話を語ってくれます。

この質問者は、Oshoを目の前にして質問しているわけですから、

あなたが見ることができるなら、
見える。

見ることができなければ、
忘れてしまいなさい。

というOshoの言葉はよくわかります。

あなたが見ることができるなら、
見える。

見ることができなければ、
忘れてしまいなさい。

あなたは決してその意味を
知ることはできないだろう、

なぜなら、その意味は
あなたの目の前にあるのだから。

まさに、その通りなのです。

その意味は明白で、目の前にいる人を見ればわかるはずのものです。

でも、それが見えない人には見えないもののようです。

星の王子さまに、次のような言葉があります。

「心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。

かんじんなことは、目に見えないんだよ」

マインドで見る人は、いろんな質問や解釈が湧き上がってくるでしょう。

自分のマインドに忙しくて、目の前のものが見えません。

でも、ハートの目で見る人は、
そのハートに共鳴するものがあれば、
すぐに分かるものです。

あるいは、センス・オブ・ワンダーがあれば直ちにそれだと分かるものだと思います。

今日はこれぐらいにします。

えたに