寂しさへの瞑想 その3

Oshoの言葉

寂しさへの瞑想シリーズ その3

禅のマスターが何かを言うとき、
あるいはどんなマスターも
何かを言うとき、

その意味は絶対的に明確であり、
明白だ。

それはただあなたの目の前にある。
それを避けようとしないように。

もしあなたが意味を探し始めると、
右往左往して、
目の前にあるものを見逃してしまう。

それは、シンプルな言葉だ。
「私は私とともにひとり座っている」

その感覚を持つために、試してごらん。
時々、一人で座るといい。
それが瞑想ということのすべてだ。

何もしないで、ただ、ひとりですわる。
ただ、やってごらん。
もし、孤独(さみしさ)を感じ始めたら、
そのときは、
あなたの存在の中に
何か欠けているものがあるということだ。

あなたはまだ、自分が何者であるかを
理解できていないのだ。

そして、この寂しさの中に
深く入り込んでいくと、

ある層で突然、寂しさそのものが変容して、
ひとりであることになる。

それは変容するーー
同じ現象の否定的な側面だ。

寂しさは、
ひとりであることの否定的な側面だ。

もしあなたがその中へと
深く入っていけば、

突然、あなたはそのポジティブな側面を
感じ始める瞬間がやってくる。

両方の側面がいつも一緒にあるのだ。
              Osho

あるいはどんなマスターも
何かを言うとき、

その意味は絶対的に明確であり、
明白だ。

それはただあなたの目の前にある。
それを避けようとしないように。

マスターが言っていることを、
私たちのマインドは、なんだかんだ理屈をつけて
自分に都合の良い解釈に捻じ曲げて、
結局は、何もしないで終わるのです。

そんなことをしないように、

とOshoは警告しているわけです。

私が「道元」の本を翻訳した時、
校正を担当してくれたナルタンに言われたのは、
Oshoの翻訳をする時は、自分のマインドで解釈しないように、

ということでした。

翻訳する時に、わかりやすい日本語にしようとすると
どうしてもそこに自分の解釈が入ってしまいます。

そんなとき、一字一句、自分の解釈を入れずに翻訳しようとするとどうなると思います?

直訳調になってしまうのです。
でも、それをできるだけ自然な日本語になるように
というのが苦心のしどころだったのを思い出します。

自分の解釈しようとするマインドとの戦いでもありました。

もしあなたが意味を探し始めると、
右往左往して、
目の前にあるものを見逃してしまう。

それは、シンプルな言葉だ。
「私は私とともにひとり座っている」

 

その感覚を持つために、
試してごらん。

時々、一人で座るといい。
それが瞑想ということのすべてだ。
何もしないで、ただ、ひとりですわる。
ただ、やってごらん。

さて、ここで問題です。

###name###さんはここで、どうしましたか?

そのまま読み飛ばしましたか?

「え? 一人で座るだけで、それが瞑想のすべてなの?」と頭の中で反論していましたか?

「ふぅ〜ん、あとでやってみようかな?」

と思って、そのあとは2度とこない、というのが普通です。

ある人は、ここで、目を閉じて、
しばらく一人で座ってみることをした人が
いるかもしれません。

これはOshoをどのように思っているかで、言葉の受け取り方は変わってくると思います。

それは正解はありませんし、
人それぞれでいいと思います。

Oshoをマスターだと思っている人もいるでしょうし、
教師だと思っている人もいるでしょうし、
髭の生えたおじさんと思っている人もいるでしょうし、

人それぞれだと思いますが、
そのOshoをどう思っているかで、
次の言葉の意味が変わってきます。

もし、孤独(さみしさ)を感じ始めたら、
そのときは、あなたの存在の中に
何か欠けているものがあるということだ。

あなたはまだ、自分が何者であるかを
理解できていないのだ。

どのように意味が変わってくるのか?

それは、自分がこの言葉をどう受け取っているか
ということを見てみれば、分かると思います。

マスターの言葉として受け取った人は
この言葉を避けることはしないでしょう。

Oshoを教師として見ている人は、
この言葉を知識として記憶するだけで
何もしないでしょう。

髭の生えたおじさんと考えている人は、
ただ読むだけで、何も残らないでしょう。

今日はここまでにします。

えたに