Oshoの講話の秘密 Like Flowers of a Garland

花冠の花のように

質問者:
Osho
あなたは首尾一貫していないことで有名です。
でも、今のそしてこれからの
世の中に向けての

あなたが自分自身であるという
最も説得力のある証しとは
この数十年にわたって
あなたが即興で話してきた
数限りないの言葉のすべてにおいて

あなたはご自分に対しては
一貫しているということです。

Osho:
その通りだ
私は自分に対して矛盾したことはない
それは無理だ

そもそも前に何を言ったか
覚えていないというのに

どうして矛盾できよう?

第2に
私の言葉は考えてのものではなく
私の体験だ

思考では矛盾はあり得るが
体験においてはあり得ない

私は、一見矛盾して
見えるようなことを言うが

それは実は進化なのだ

私の体験を
私は様々な形で表現してきた

おそらくそのために
首尾一貫していないと
思われるのだろう

体験を様々な形で表現していたのは
あなたがある方法で見逃しても
他の方法でなら
わかるかもしれないからだ

私はありうる限りの
あらゆる側面から
伝えようと試みてきた

人びとを助けるためだ
なぜなら
ある角度は
あなたに届かないが
別の角度ならあなたに
合うかもしれない

私はすべての可能な多次元的な
伝え方をしてきたが
それでも
私にとっては
それらは一つも矛盾していない

それは私の体験なのだ
他人の体験を話しているのではない
他人の体験について話しているときでさえ
それは常に私の体験に基づいている

続きは、Oshoから直接聞いてください。

仏陀の言葉は、待機説法だったと言われています。
その質問した人に応じて答えられた言葉です。

Oshoも全く同じです。
その質問者に応じて話をしていたので、
質問者が異なると、同じ質問でも、
話すことが真逆になることもあります。

ある人にとって助けになることでも、
別の人には助けにならないこともあるからです。

その人が、聞く準備ができているかどうかによっても
答えは異なってきます。

また、Oshoは古今東西の、
ありとあらゆる経典や聖典についても
語ってきています。

それらの経典は、時代も、文化も異なり、
メソッドも異なっていたりします。

禅とヨガとタントラとスーフィーとは
それぞれ異なったメソッドですし、

仏陀について語るのと、
キリストについて語るのとでは、
まったく異なったものになります。

キリストなら自分の主張は首尾一貫することはできるでしょうし、
仏陀も、基本的なメッセージは首尾一貫しています。

しかしOshoはそれらのすべてについて話していたのですから、
話す題材が異なれば、それらの話の内容が、矛盾したり
異なっているように思えることはしばしば生じます。

しかしその中で、Oshoが話していたことは、
すべて自らの体験と理解に基づいて語っています。

単なる評釈や仮説や解釈などではありませんでした。

それらをすべて、自らの体験において語ることができる
というのは、想像を超えることですが、
Oshoが語る言葉に嘘がないのは、

まさにそれらのすべてが、
Osho自らの体験に基づいて語られているからなのです。

今日はここまでとします。

えたに