OSHOはなぜアメリカに行ったのか?

禅の公案に「なぜ達磨大師が遠路はるばるインドから中国へと渡られたのでしょうか?」(「如何なるか是れ祖師西来意」)という公案があります。

今回は「なぜOSHOは遠路はるばるインドからアメリカへと渡ったのか?」について、シュンニョが書いてくれています。

そのなかで、OSHOが語っていたことがどのように実現したりするのか? OSHOはどのように講和していたのか? そしてなぜOSHO がアメリカに行ったのか? その経緯が書かれています。

シュンニョは書いています。

1980年代をつうじて、政治家と、彼らの腐敗と狡猾さについて、OSHOが多くのことを話したのを憶えています。

はじめ私には、OSHOの言うことがほんとうだとは信じられませんでした。
国を統治するのは善良な人で、間違いを犯すことはあっても基本的には善人のはずだと信じるというのが、私の条件付けだったのです。

私はそれが違うと言うことを自分自身の体験から学ぶことになりました。
1985年11月から1990年1月までのあいだ、何の罪も犯していない人(OSHOのこと─筆者記)が、アメリカ合衆国政府の投じた毒によってゆっくりと死んでゆくのを、じかに目撃することになったのです。

そして私自身も、架空の罪で手錠をかけられ、アメリカの刑務所で鎖に繋がれました。

すべての天才がそうであるように、OSHOもまた、その生きた時代をはるかに先んじていました。
OSHOの語ることはなんであれ、簡単には消化できません。かならず時間がかかるのです。

OSHOの忍耐には想像を絶するものがあります。
誰も理解しないことを承知の上で、来る日も来る日も人々に語りかけるというのは、なんということでしょう。

私たちの顔を見れば、私たちが白昼夢にひたっており、聞いたことの1パーセントしか理解できないことが明らかなのに、それでも語りつづけるというのは、なんということでしょう。
30年間、OSHOはずっと語り続けました。1日に5回の講話をしていたこともあります。

1970年の末ごろから、OSHOは新しいコミューンについて語るようになりました。
当初の計画では、私たちはインドのクッチ地方に移ることになっていました、新しいコミューンには、五つ星ののホテル、2つの湖、ショッピングセンター、ディスコ、2万人を収容する居住設備などがある──OSHOはそのように言いました。

私たちは大笑いしました。とうてい不可能な計画だと思ったからです。
「新しいコミューンでは・・・」というのは流行語になりました。「新しいコミューンでは・・・」という言葉を印刷したTシャツや野球帽まであらわれたぐらいです。

私たちが自分の言葉の責任を負わされずにすんだのは幸運でした。
というのは、そうしたコミューンは現実のものになったからです。
(アメリカのオレゴンのコミューンのことー筆者記)

70年代の後半、プーナでのOSHOは毎朝講話をしていました。
どの講話でも、OSHOは何の用意もせずに、言葉が湧いてくるままに話します。

報道関係者がこのことを指摘しないのはどうしてなのか、私には不可解です。
朝8時、OSHOはオーディトリアムに行き、1時間半から2時間のあいだ話します。
つぎになにを言うのかは彼自身にもわからないし、私たちが彼の言葉を聞いているように、彼もまた彼自身の言葉を聞いているのだと、OSHOは言います。

OSHOの言葉は記録され、そのままで本にされました。
そうして著されたOSHOの本は700冊におよびます。

この初期の時代(1975年~1981年)OSHOとともにいた私をはじめとする人々の多くは、60年代にあらわれた「フラワーチルドレン」と呼ばれる若者たちで、社会からの条件付けを砕け散らし、意識を成長させようとしていました。

私たちは無邪気なところがありました。思うに、私たちはあまり世間的ではなく、堅固な根もありませんでした。
私たちはスピリチュアルな新世界の子供達だったのです。

1981年のはじめ、講話で座りながら、わけもなく泣きつづけることがありました。
恥ずかしげもなく顔をくちゃくちゃにし、涙と鼻水が流れるまま座っていました。
その理由がわかったのは、1週間ほど泣き続けてからでした。

いつも不思議に思うことですが、私のなかのある部分は、これから起ころうとしていることを知っています。

1981年のはじめ、OSHOの腰痛が悪化し、イギリスから専門医が呼ばれました。
それでもOSHOの腰痛は快方に向かわず、数週間にわたり,講話もダルシャンもできなくなりました。
それが3年にわたるOSHOの沈黙の時期の始まりでした。

OSHOがふたたび身体を楽に動かせるようになると、毎朝私たちと一緒に沈黙のまま座り、そのあいだ、ミュージシャンたちが演奏しました。

その音楽は美しく、その時期にはなにか特別なものがあったという人たちがいます。
私はそれに気づきませんでした。
なにか恐ろしいことが起こるのではないかという恐怖と不安でいっぱいだったのです。

予感は的中しました。
OSHOはアメリカに行ったのです

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)