OSHOとともにいて起こる現象というのははかり知れないものがあります。
それをOSHOは「光明を得た人という現象」というふうに言っています。
まさに神秘だとしかいいようがありません。
そのOSHOとともにいることは、まさにシュンニョが書いているとおりです。
それはただ、彼が肉体にいたときと同じように、いまでも彼を感じられるということです。
「生きて」いるときに私がOSHOから感じたエネルギーは、純粋なエネルギー、死ぬことのない魂だ ったのでしょう。
彼に肉体がなくなったいまでも、かつてと同じものが感じられるのですから
OSHOが語る「不在」というのは一体何なのでしょうか?
シュンニョは語ります。
私はこの章でOSHOの死について書こうとしたのですが、いざはじめてみると、それは不可能だと いうことがわかりました。
OSHOは死んではいないからです。ほんとうに彼が死んでいるのなら、私は喪失感を味わうはずです。
でも、彼がここを離れてから、私がなにかを失ったと感じたことは一度もないのです。
OSHOの霊が幽霊のようにあたりを漂っているとか、雲のなかから彼の声が聞こえてくるといったことではありません。
それはただ、彼が肉体にいたときと同じように、いまでも彼を感じられるということです。
「生きて」いるときに私がOSHOから感じたエネルギーは、純粋なエネルギー、死ぬことのない魂だ ったのでしょう。
彼に肉体がなくなったいまでも、かつてと同じものが感じられるのですから。
OSHOのビデオを見たり、彼の言葉を読んだりすることを重ねるうちに 「彼は肉体にいるときでさえ、ひとりの人格として存在していたのではなかった」という私の理解は、さらに深みを増してゆきます。
「死んだら私はいないように、いまの私もいないのだ。そこにはひとつの違いしかない。いまの私の不在には肉体があるが、死後の私の不在には肉体がない」――OSHO (ウルグアイにて)
「私はなにものでもない。私はたんなる不在にすぎない」ということを彼はいろいろなかたちで語っていたのですが、私はそれを理解していませんでした。
ところがウルグアイでこんなことがありました――講話の最中、彼の座っている椅子が空っぽなのを見たのです。
私には空っぱの椅子が見えました。OSHOのうしろの壁を通して、空と海が見えました。とほうもないエネルギーが彼をつうじて流れているのが見えました。
それはあまりにも強力で、しかも素早いものでしたので、私は恐くなりました。彼はまったく無防備に見えたからです。
「私なら、存在にこんなことをさせられないわ」というのが、私の頭が考えたことでした。
私はこの体験について彼に手紙を書き、自分はまるで幽霊に出会ったかのように驚いていると伝え
ました。
OSHOはつぎのように答えました。
「あなたは、光明を得た人という現象を深く見つめなければならない。
彼はいる、そして、彼はいない。彼はその両方だ。彼には肉体があるという意味では、彼はいる。彼にはもはやエゴがないという意味では、彼はいない。
光明を得た人は、空のように見える。彼に波長を合わせたなら、彼はいないと気づくときがある。 するとあなたは、幽霊に出会ったかのように驚き、恐れるかもしれない。
あなたに起こったのはそういうことなのだ。あなたは私に波長を合わせた。ときにあなたは、知らないうちに私に波長を合わせている。
ときにあなたは自分自身を忘れ、そして私に波長を合わせる。あなたがエゴを忘れたときにだけ、出会いは 起こるのだから。
そしてそうした出会いのなかで、あなたは椅子が空っぽなのに気づく。
それは一瞬のことだったかもしれないが、じつのところ、あなたはかつて見たどんなものよりもリアルなものを見ていた。
あなたは中空の竹をのぞきこみ、それが奏でる音楽の不思議をかいまみた」
この講話のあと、OSHOは私の名前を「チェタナ」から「プレム・シュンニョ」に変えました。これは「空への愛」という意味です。
「私の臨在は、ますます不在のようになってゆく。
私はいる。そして私はいない。 私が消えれば消えるほど、私はあなたをもっと助けることができる」
ボ ンベイ、1986年
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