アメリカ政府によるOSHOの暗殺計画があった、なんてことはにわかには信じられないことです。
私も、最初はなんぼなんでも、そんなことまでしないだろうと思っていましたが、いろいろと調べ、追求していくと、そうとしか考えられないという結論に至りました。
このシュンニョの手記に書かれてある事実だけでも、アメリカ政府のOSHOに対する待遇は、あまりにも不信な対応が目立ちます。
ノースカロライナからポートランドまで、6時間ですむはずの行程を7日間もかけて護送され、その間に4つの拘置所に拘置されています。しかも、偽名での署名を迫られもしたのです。
なんのために?
ふつうなら25ドルの罰金ですむような2つの軽犯罪の容疑のために、保釈もみとめられなかったのです。
しかも、その2つの容疑でさえ、でっち上げの罪だったのです。
この一連の拘置所でのたらいまわしをされてから、OSHOは不可解な体調不良に苦しめられます。
最初は原因が不明だったのですが、さまざまな検査の末に判明したのが、それはタリウムの毒と放射能を浴びせられたことによることが明らかになったのです。
シュンニョは書いています。
「裁判は5日間におよびました。
裁判が終わり、とうとう鎖をはずされて裁判所をあとにする私たちに、ある記者がこう大声で尋ねました。
「鎖をはずされてどんな気持ちですか?」
一瞬考えたあと、私は両手をあげてこう答えました。
「前と変わらない気持ちです」
OSHOに保釈は与えられませんでした。
拘置を解かれないままオレゴン州ポートランドへと護送され、そこで保釈について決められることになったのです。
ポートランドは飛行機で6時間の距離にあります。
監視人に付添われて護送用の飛行機の階段を昇るOSHOの姿を、私はテレビのニュースで見ました。
手足を鎖につながれていましたが、その歩みには、覚者(ブッダ)にしか見られることのない特別な美しさがありました。
彼の歩く姿を見て、私のハートは破れんばかりになりました。
私たちは牢の格子ごしにOSHOに、さよならを言うのを許されました。
ムクティとニルパと私は、格子から手を差し入れて泣きました。
彼は鉄のベンチから立ち上がり、私たちのところに歩いてきました。
そして私たちの手をとると、こう言いました。
「行きなさい。心配はいらない。じきに私も出るのだから。
すべてうまくいくだろう。しあわせな気分で出て行きなさい」
拘置所の事務所で釈放を待っているとき、テレビにOSHOが映りました。
警官のひとりがこう話しているのが聞こえました。
「あの男はほんとうにたいしたものだ。どんなことが起こっても、リラックスして平静なままだ」
私は全世界に向けて叫びたくなりました。
「ここにひとりのマスターがいます。無実の罪で逮捕され、アメリカの司法機関に虐待され、肉体的にも苦しめられたうえ、今度は銃口を突きつけられてアメリカじゅうを引きまわされようとしています。
それでも、この人は私たちに『しあわせな気分で出て行きなさい』というのです」
このちょっとしたひと言からでさえ、彼がどんな人なのかわからないのでしょうか?
そのひと言で、私のエネルギーは方向を変えました。
私は泣くのをやめ、彼を見つめました。
しあわせは強さです。
しあわせこそが彼のメッセージです。
「しあわせな気分でここを出よう。そして私は強くなろう」
──私は自分に誓いました。私は内面の強さを見つけました。
ですが、私のしあわせはうわべだけでした。
心臓手術の傷に貼った一枚のばんそうこうのようなものだったのです。
私たちはみなラジニースプーラムに戻りました──のちに彼を殺すことになる人たちの手にOSHOを残したまま。
ノースカロライナからポートランドまで、6時間ですむはずの行程を、OSHOは7日間もかけて護送され、その間に四つの拘置所に拘置されました。
OSHOが放射能を浴びせられ、タリウムという毒を飲まされたのは、この7日間の拘禁中でした。
私たちはラジニースプーラムで首を長くして待っていました。
11月4日の夜以来、OSHOの消息がつかめなくなりました。
OSHOを護送する飛行機がオクラホマに着いたという知らせがあったのは11月6日です。
シャーロットからオクラホマまで6時間で飛べる距離なのに、OSHOがシャーロットを出てからもう3日目になっていました!
拘置所の関係者たちは、けっしてOSHOの所在をあかそうとしません。
ヴィヴェックがさんざんどなりまくったすえ、私たちの側からのより積極的な捜査がはじまりました。
ビル・ディールがオクラホマに飛びました。
シャーロットで私たちの力となり、愛を持ってOSHOのために働いてくれた弁護士です。
そしてOSHOが見つかりました。
彼はすでに2つの拘置所を引き回されたうえ、片方の拘置所ではデヴィッド•ワシントンという偽名での署名をせまられていました。
それはあきらかに、彼の身になにかが「起きた」としても、拘置所の書類にはOSHOの名前が見つからないようにするための工作でした。
OSHOがポートランドに着いて、そこで保釈を認められたのは、逮捕から12日後でした」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)