OSHOほど言論の自由を行使した人はいないでしょう。
かつまた、OSHOほど真実を話すことにおいて妥協をしなかった人もいません。
普通は何かを話すときに、そのことを話したらどうなるかということについて、気兼ねや打算というものが入り込んだりしますが、そういうことをいっさい考えなかったようです。
というか、そもそもそういうことを考えるマインドがなかった、といえばそれまでですが。。。
シュンニョはそれを「危なさ」というふうに言っていますが、OSHOの口を封じることは不可能なことで、OSHOの世話をする側近のひとたちも大変だっただろうと思われます。
OSHO自身でさえ、自分がつぎに何を話すのかは、話すまではわからないと言っているぐらいですから、しかたないといえばしかたないですが。。。
シュンニョは書いています。
「OSHOの講話には、つねにある種の危なさがありました。
つぎにどんなことを話すのかまったく見当がつかなかったからです。
ネパールについてすぐ、ハシヤはOSHOに言いました。
「ネパールはヒンドゥー教を国教にしています。どうか……お願いですからヒンドゥー教を批判するようなことをおっしゃらないでください」
ところがある晩講話のなかで、OSHOは高官や報道関係者を前にしてつぎのように言ったのです。
「ヒンドゥー教を批判することは言わないようにと、私は友人から頼まれている。
だが私になにができるだろう?
ここはまさにヒンドゥー教を批判するようなことを言うべき場所だ。
みんなは私がキリスト教を批判するようなことを言うのを期待しているのだろうか?
いや、それはイタリアを訪れるまでとっておこう」
そのころイタリアでは、記録映画の撮影班がOSHOのもとを訪れる準備をしていました。
彼らはネパールのビザを取得しました。
すでにサルジャノは到着しています。
OSHOがイタリアを訪れる計画があり、ビザの申請もうまくいきそうでした。
ですが、まだ準備の整わないうちにOSHOがイタリア訪問を計画しているということが報道されるのは得策ではありません。
ですから私たちはそれを秘密にしていました。
その晩サルジャノは、講話中のOSHOの写真を撮っていました。
そこで私には、聴衆に対面したOSHOのそばにいるサルジャノの姿がよく見えたのです。
「それはイタリアを訪れるまでとっておこう」とOSHOが言うのを聞いたとき、サルジャノは目を丸くして「イタリアのビザが‥‥‥」とつぶやくと、書類を破ってうしろに投げるふりをしました。
それを見た私は大きな笑い声をあげました」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)