ワールドツアー

OSHOに残された時間はあと4年。タリウムの毒は着実にOSHOのからだを弱らせていきます。

そのうちの1年をOSHOはワールドツアーのなかで各地を転々として過ごすことになります。

結局ネパールでは3ヶ月のビザも切れる頃になってもOSHOの住めるような宮殿も、小さな家さえ見つけられませんでした。

OSHOの弟子の9割は西洋人であり、ビザがなければOSHOに会うことができなくなってしまいます。

ネパールにもアメリカの圧力は及び、ビザを延長されることはありませんでした。

そこで出されたアイデアが「ワールドツアー」です。

OSHOはどこにいても人々から愛されるようです。

拘置所や監獄のなかでもそうでした。
そして、たった3ヶ月しかいなかったネパールの人たちとの別れもそうでした。

そして、ワールドツアーのつぎの行き先はギリシャです。

シュンニョは書いています。

私たちはネパールに3ヶ月いました。ビザを延長する時期ですが、私たちはOSHOが住めるような宮殿も、小さな家さえ見つけていませんでした。私たちはまだホテルにいました。先の見込みはあまりないような状況です。

もっとも土地の人たち、とくにホテルの従業員たちは、OSHOへの愛と経緯にあふれていました。
洗濯場の従業員たちはいつも夜の講話のチケットを欲しがりましたし、メイドやウエイターも講話にやってきました。

あるとき、私たちの部屋にお茶を運んできたウエイターが、ウォークマンのイヤホーンをして座っているムクティを見て叫びました。

「聞いているのはOSHOですか?」

彼はその場に腰をおろすとウォークマンを貸してもらい、講話の録音テープの終わりまで聞いていました。

私はネパールの人たちをとても愛していました。
ある日、買い物をしていると店の主人がこう言いました。
「あなたのグルはよくないね」(少し前にOSHOは講話で、仏陀は富を捨てたがそれはたいしたことではない。『私は貧困も捨てる』と言っていたのです)

ですが、彼らの非難には悪意がありませんでした。
彼らは少なくともOSHOが話していることに関心を持っていました。

いずれにせよ私たちはビザの延長を拒否されました。
これ以上ネパールに希望を持てなくなりました。
国王が勇気を出してOSHOに対する自分の支持を公にすることはありませんでした。
二、三の閣僚が講話を聞きにきただけです。

たえず探していたにもかかわらず、売りに出されている土地も見つかりませんでした。
そして一番の問題はビザでした。
インド政府が口をはさんできたことは疑いありません。

必死になって観光客を求めているネパールでは、ビザを3ヶ月延長することはふつうなら容易なことです。ですが私たちの場合は違いました。

このままではまた、OSHOは外国人の弟子たちと切り離されてしまいます。
OSHOの弟子の9割は西洋人です。

OSHOはこうした状況のなかでもいつものように、存在(イグジスタンス)そして弟子たちへの全面的な信頼を見せてくれました。

「ワールドツアー」という計画が生まれ、OSHOはそれに「オーケー」と言ったのです。

マ・アムリットは、カリスマ性のある美しいギリシャの女性です。
彼女はかつてミス•ギリシャに選ばれ、そのころからギリシャの政治家や上流階級の人々とのつながりをたくさんもっていました。

彼女は夫と自分の愛人を連れて、踊るような足取りでカトマンドゥにやってきました。
ホテルのエレベーターではじめてこの3人組を見たとき、「ううん、この人たちはおもしろいわ」と私は思いました。

この3人組とハシヤ、ジャイエッシュ、ヴィヴェック、デヴァラジの相談により、ワールドツアーの最初の訪問地はギリシャに決まりました。

ギリシャを訪れるための準備がはじまりました。
ラフィア、マニーシャ、ニーラムそして私は、荷物を持ってあとから出発することになりました。

OSHO、ヴィヴェック、デヴァラジ、ムクティ、アナンドが先に出発します。
グループを小さくまとめるため、ニルパとアシュは故郷のカナダに帰ることになりました。

OSHOが発つ日には、たくさんの涙の別れがありました。
ホテルの従業人たちも泣いています。
私たちのメイドのラディカは、悲しみを抑えきれずおいおいと泣きました。

OSHOはのために用意していた自家用機は二日間デリーで足止めされていたので、OSHOは定期便で飛び立つことになりました

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)