ポルトガルからインドの帰国の途につき、OSHOのワールドツアーは終わりを告げました。
そのワールドツアーの意義は何だったのでしょう?OSHOという鏡を通して、世界の実態が映し出されたのでした。
そしてOSHOはインドのボンベイにある、古くからのサニヤシンの家に、しばらく滞在することになり、その後数ヶ月して、アメリカに渡る前にあったプーナのOSHOのコミューンに戻ることになりました。
そこで彼の最後の仕事(ワーク)を再開したのです。
シュンニョは語ります。
『のちにマニーシャは、自分の本に載せるためにジョンにインタビューしました。そのときジョンはとても美しいことを語りました。
『ワールドツアーは、世界という文脈のなかでOSHOを見るためのすぐれた視点を与えてくれた。ツアーの中のOSHOはずっと、彼自身が語るような禅の人そのままだった。単純でごく普通の人だった』
ジョンは、カリフォルニアのいわゆる『ニューエイジ運動』のリーダーたちのことを思いだしました。
「私はとても高いところにいる」「人生はすばらしいじゃないか」「私は宇宙と一体だ」とかいうせりふを好んで口にする人たちです。
そうした言葉はすべて、頭から来るものにすぎませんでした。
OSHOがずっと一緒にいたジョンは、OSHOがそんなせりふを口にできる機会はたくさんあったのを知っています。
たとえばクレタ島で逮捕されたときです。それでもOSHOはキリストと違って「彼らを許したまえ。彼らは自分自身のしていることを知らないのだから」などとは言いませんでした。
イギリスで拘置所に入れられたときにも「このあわれな馬鹿者たちにもかかわらず、私は宇宙と一体だ」などとも言いませんでした。
「望ましくない評判」を理由にして、ジャマイカを退去させられたときも、「私はなんと高いところにいて、彼らはなんと低いところにいるのだろう」などとは言いませんでした。
OSHOが求めたのは、たとえば一杯のミルクを手渡してもらうこと、朝食用シリアルとはいったいなんなのか説明してもらうこと、あるいは、いま何時か教えてもらうこと―――そんなことだけでした。
飛行機は滑走路に向かい、離陸に備えてエンジンの出力を上げました。
私たちは沈黙のかたまりのようになって、それを見つめました。
飛行機がスピードを上げて通り過ぎるとき、窓から手を降る和尚の姿が見えました。
そして彼は空の上です。私の口から二つの言葉がもれました・・・・・・空っぽの、舟。
私は広々とした海の中にいました。「空っぽの舟」に乗って。
OSHOがインドに向かってから一ヶ月のあいだ、私はロンドンで待機していました。
そしてやっと、いまならインドへの入国を試みても大丈夫だと思えてきました。
ヴィヴェックは二週間ほど前にインドに向かっていました。彼女から聞いたのですが、私がインドに着いた日、彼女はOSHOに「なんの知らせもないので、チェタナが無事に着いたかどうか心配です」と話していたそうです。
OSHOはただくすくす笑ったそうです。
そのときには私はすでに到着していました。
OSHOはボンベイにあるスラジ・プラカーシュの家に滞在していました。
スラジ・プラカーシュは古くからのサニヤシンで、ラジニーシプーラムにもいたことがあります。
ラジニーシプーラムの時代をOSHOとともに過ごしたインド人の弟子たちは、その体験によって成長し、他のインド人たちから際だっていました。
彼らは東洋と西洋の完全な融合を体現する人間、OSHOが言う新人類(ニューマン)へと成長したように思えます。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)