Oshoによれば
「人生でのすべてのごたごた、
愛や関係性をめぐるすべてのごたごたは、
私たちの無意識がこしらえたもの」です。
しかも、私たちは自分のしていることをわかっていない。
自分のしていることをわかっていないのみならず、自分のしてしまうことを止められない。
その結果、ものごとにただ反応しているだけの人生になってしまっている、というのがOshoから見た私たちの人生の様相のようです。
つまり、自分がやっていることに無意識なわけです。
ひとことで言えば、「気づき」がないのです。
そういう人生を送っている私たちからの質問に対するOshoの答えというのは、Oshoの「気づき」をその人の人生にもたらすことにあります。
しかも、そのOshoの答えは、その質問をした人に対して答えられるので、同じ質問内容でも、質問した人によってはまったく異なった答えにもなっています。
ですから、同じ質問に対して、まったく真逆の答えになっているということは、よくあることです。
そのことがわかっていないでOshoの講話を聞くことは混乱のもとにもなり得ます。
というのは、Oshoの語ることを聞いていれば、たいていはどこかでまったく異なったこと、真逆のことを話していたりするので、こういう問題についてOshoはああ言っただの、こう言っただの議論をしても無意味なのです。
なぜなら、それはその質問者への、そのときの問題についての答なので、自分の状況はその質問者とは違っているかもしれないからです。
ですからOshoの講話は、いかに自分の現状に即して、自分自身に気づきをもたらすために使えるかが鍵です。
でも、ずっと長くOshoとともにいたシュンニョでさえ、このような勘違いをするのですから、それらの見極めをするについても、気づきが求められます。
人間の老化に関する生物的な変化を、あるがままに認識して受け容れるというのは、確かになかなか難しい面はあります。
肉体的な老化に比べて、精神年齢(気持ち)は相変わらずだったりしますから。
シュンニョは語ります。
「ある晩の講和ではOshoは、
カップルがけんかをするのは、
ふたりが性を抑圧しているからだと言いました。
それを聞いて、私はまるで啓示でも受けたかのように思いました。
私が自分が性的に抑圧されていると思ったのです。
私は、ハートをふるわせて筆をとり、ただこの発見を伝えるためにOshoへの質問を書きました。
彼は私からの「とても深刻」な質問にジョークで答えました。
中年にさしかかっているイギリスのレディについてのジョークなどを連発したあげくに、私がそんな誤解をしたのも、ミラレパがまた女を追いかけているからだと言って、みんなを笑わせました。
「あなたは何年も私とともにいた。
それでも性的に抑圧されているなんて、
どうしてそんなことが言えるのか。
私の評判を落とすつもりかね」
私が自分の状況をもっと軽く受け止められるよう、Oshoはそんなふうに答えました。
私はすっかり腹を立てました。
翌朝講話でほかの人の質問に答えながら、Oshoはつぎのように言いました。
「人生でのすべてのごたごた、
愛や関係性をめぐるすべてのごたごたは、
私たちの無意識がこしらえたものだ。
私たちは自分のしていることをわかっていない。
気づいたときには手遅れだ。
すでにしたことは帳消しにできない。
昨日の晩のこと、私はチェタナからの質問に、
とても軽く、とてもやさしく、
とても愉快に答えた。
それについて冗談も言った。
ところが彼女は、私にうんざりしている。
それは彼女の顔をみればわかる。
ミラレパも怒っている。
あなたは自分のしていることを
わかっていない。
あなたは自分のしてしまうことを止められない。
あなたはただ反応している。
チェタナが私の言っていることを
ちゃんと聞いてさえいたら……。
私はただ『深刻にならないように』
と言っただけだ。
私はそれを笑ったが、彼女には笑えなかった。
それは自分の問題ではなかったから、あなたがたも笑った。
あなたがたが笑えば笑うほど、
彼女は深刻になった……。
誰の人生にも変化の時がやってくる。
覚えておくべきもっとも大切なことのひとつは、
あなたの生のパターンが変わるとき、
それは自然に変わらなければならない
ということだ。
そうした変化は、
あなたがどうこうできるものではない。
13歳から14歳になると、生物としてのあなたは
セックスができるようになるが、
それはあなたがそうしたのではない。
それはある年齢、40か42歳に近づくにつれ、
生物としてのあなたの目的はなくなっていく。
あなたを突き動かしていたホルモンは消えていく。
この変化を受け容れるのはとてもむずかしい。
自分はもう美しくない、フェイスリフト
(しわをとるための手術)が必要なのではないか、
などと突然考えるようになる。
西洋はたえず自然に無理強いしてきた。
ものごとはこうあるべきだ
という考えを押しつけてきた。
誰も老いたくはない。
だから人生のひとつの時期に変わり目がくると、
とてもおかしな現象が起こる。
チェタナに起こっているのはそれだ。
私がそれについてなにかを言おうが言うまいが、
それは起こりつつある。
それは燃え尽きる寸前、
燃え尽きる2、3秒前のろうそくが、
突然すべての力をふりしぼるようにして、
大きな炎を輝かせるようなものだ。
誰も消え去りたくはない」
Oshoはつづけて、死を目の前にした人が突然、まるで病気が完治したかのようにまったく元気になるという現象について話しました。
家族や友人たちはそれを見てよろこぶのですが、実のところ、それは死の前兆にすぎないのです。
生命のラストスパートとも呼べるでしょう。
同じことがセックスにも起こります。
消え去る前の大奮闘があるのです。
私のマインドがセックスのことでいっぱいになったのはそのためでした。
「……あなたがもはや若くなくなり、
からだのなかのホルモンがなくなるにつれて、
セックスへの興味も失せていくだろう。
だが、それは消え失せる直前に
全力を持って爆発する。
精神分析医のところに行ったなら、
あなたは性を抑圧していると言われるだろう。
私は同じことを言うわけにはいかない。
突然に生じたこのセクシュアリティの高まりは、
ひとりでにおさまることを知っているからだ。
あなたはなにもしなくていい。
これが生が変化しつつあることのしるしだ。
生はもっと穏やかで、落ちついたものになっていくだろう。
ほんとうのところは、
あなたはよりよい状態へと向かっているのだ。
セックスは少しばかり子供っぽい。
あなたが成熟するにつれ、
あなたがセックスのとりこになることは減っていく。
それはよい兆候であって、よろこぶべきことだ。
解決すべき問題などではない。
よろこび祝うべきことだ。」
「Oshoと過ごしたダイヤモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)